【神奈川のこと52】母とおば達の横浜大空襲(横浜市西区宮ヶ谷)
76年前、昭和20年(1945年)5月29日、米軍のB-29爆撃機約100機が横浜に飛来し、焼夷弾による無差別爆撃を行なった。死者数約8千から1万。その空の下、9歳の母と妹たち(つまり、おば達)はいた。
よって、これを書く。
夜更かしをするようになったのは、小学校5年生の終わりぐらいからだろうか。枕元のラジカセで深夜のラジオ番組を聴くようになったからだ。
ニッポン放送、塚たんくろうの「くるくるダイヤル ザ・ゴリラ」を聴き、そのまま「オールナイトニッポン」へという流れ。オールナイトニッポンの第一部は最後まで聴けず、十中八九、途中で眠りに落ちる。イヤフォンを耳につけたまま、はっと気が付くと、オールナイトニッポンの第二部が流れている。夢かうつつかの不思議な感覚。夜更かしは楽しかった。
中学生になると、階下に降りて、深夜のテレビ放送を観るようになる。「よよよい、よい、めでてぇな」の伝七捕物帳の再放送、その合間に流れる銀座じゅわいよくちゅーるマキのCMを観ながら、インスタントラーメンをすすった。名画「砂嵐」もよく観たっけ。魅惑の時間であった。
そんなことをしていると、たまに、2階からトントントンと階段を降りてくる音がする。一度就寝した母が起きてくるのだ。台所で、残りのごはんでお茶漬けかなんかを作って食べている。
そんな時は決まって、母とキッチンテーブルに向かい合わせに座り、色々な話をした。まあ、母の幼少の頃の話なんかが多かったのだが。自分の生まれる前の、母が生きていた時代の話を聞くのが好きだった。頭の中に、何度も行ったことのある、横浜は浅間下交差点近くの母の実家が浮かび、祖父や祖母、おじやおば達の顔が登場する。ガラガラと開ける引き戸の玄関、子供の自分にはとても高く感じた上がりかまち、狭くて急な階段、汲み取り式便所、そして大きな柱時計のある居間、縁側。それは白黒のような、はたまた淡い天然色のような色合いの映像だ。
様々な話の中で、最も強く引き込まれていくのが、母の体験した戦争の話であった。ハラハラドキドキしながら、興味津々で聞き入った。
母は、昭和10年(1935年)11月生まれ。その翌年には二・二六事件が勃発。灰色をした軍国主義の時代だ。そんな時代に生まれたのだから、さぞ悲惨で暗い子供時代であったろうと想像するのであるが、母は、「楽しかった、私にとってはそれが当たり前の時代だったから何とも思わなかった。」と言っていた。「明治や大正の華やかな時代を知っている当時の大人には、窮屈だったかもね」とも。母の基本的なスタンスはそれなのだ。
戦争中でも、灯火管制が敷かれ、押し入れで妹たちと一緒に眠ったりすることに興奮し、みんなで「キャッキャッ」言いながらいつまでも眠れなかったと。電気技師であった父(つまり私の、祖父)とその血を継いで電気いじりが得意であった兄(同、おじ)が庭に掘った防空壕の中で、ラジオを聴けるようにした話などを、自慢げに、そして楽しそうに語った。
ただ、そんな母も、横浜大空襲の話となると少し違っていた。背筋を伸ばし、あらたまった調子で、「忘れもしない昭和20年5月29日」とNHKのアナウンサーのように語り始める。
その日、母の父は三菱造船の電気技師で横浜港に仕事に出ていた。一つ上の兄は地方に疎開しており、家には、長女の母と、二人の妹、そして母(同、祖母)の4人がいた。
昼間、空襲警報が発令。母は、妹二人と防空頭巾をかぶり逃げる準備をする。母の母は、下の妹、史子の背中に、赤ん坊の時に亡くなってしまった末の妹、みさおの位牌を括り付けた。そして、「私は家を守るから」と言い、娘たちを先に逃がした。
9歳の母、幹子は、上の妹の澄子、そして位牌を背負った下の妹、5歳の史子を連れて、現在の日本ホーリネス教会の裏山にある防空壕を目指す。
防空壕に辿り着き、中に入ると、すでにたくさんの人たちがいた。天井に沁み出た水に、外の炎が映り赤くキラキラと光っていた光景を「きれい」と母は思った。しばらくして、近くにいた顔見知りの大人に「宮ヶ谷の方はどうですか?」と尋ねたが、そんな子供のたわごとは無視されてしまった。
空襲が止み、外にでると一面の焼け野原。近所に住む白系ロシア人が、すすで顔を真っ黒にして、大きな眼をギョロギョロさせながら、ぼう然と歩いていた。
「家を守る」と言っていた母とは、避難場所で出会えた。
大好きだったひな人形とひな壇が焼失してしまったことが、悲しかった。
夜になると、真っ暗な中、焼け残りの電柱が赤くくすぶっていた。そして道端には、亡くなった方にむしろがかけられていた。それらがたまらなく怖かった。
その年の8月15日、戦争は終わった。
電気技師の祖父は、私が小学校5年生の時に亡くなり、「家を守る」と言った祖母は、私が中学校2年生の時に亡くなった。そして、母は、今から6年前の平成27年(2015年)、私が45歳になる年に祖父母の元へ帰っていった。
位牌を背中に括り付けて、母と一緒に逃げた、当時5歳の下の妹、おばの史子とは、たまに電話で話す。陽気で、感受性が強く、そしてサバイバル力に富んだ頼れるおばである。話していると5分に一回は大笑い。電話を切れば、自然と生きる力が湧いてくる。
戦前生まれのおばに励まされる、終戦から四半世紀後に生まれた私。
そして、決して悲惨一辺倒で当時を振り返らず、「楽しかった」と言い切る母。
実に粋(いき)である。
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