見出し画像

サイン

ずっとやりたいと思っていた仕事に就き、いろんな仕事のチャンスもやってきて、まわりからは夢が叶ってよかったね、とかも言われていた私は、ある時仕事をしばらく休みたいと思った。
(その理由として、仕事における経済性に違和感を感じてきたことを過去のnoteに綴ってきたけれど、理由はそれだけではなかった。)


私が学生時代だった1980年代から1990年代は女性の社会進出の意識が著しく、私も例外なくその考えにどっぷりとはまっていたと思う。
男女雇用機会均等法や、女性の総合職、キャアウーマン、肩パットの入ったスーツ。

実際に私には兄と弟がいるけれど、親や社会からは完全に同等の高等教育の機会を与えられたし、学生時代から疑うことなくずっと仕事をするんだと思ってきた。
結婚して子どもに恵まれた時も、仕事をずっとするのだろうと思っていた。仕事をする女性を法が守ってくれるとも思っていた。
そして3人の子どもを産み、一番下の息子が1歳になる頃に仕事に戻ってからは、追いかけずともいろんな仕事のチャンスがめぐってきた。

息子が小学校に上がる頃には、私はたくさんの仕事を抱え、そしてそれをこなす自分に内心誇りのようなものも持っていた。子どもは朝早くから夕方遅くまでの幼稚園の延長保育に預け、幼稚園が休みの土日は、おじいちゃんとおばあちゃんに丸投げで仕事をするという日々を送っていた。

そんな中、息子が小学校に上がってしばらく経ったある日、担任の先生から息子が学校でちょっとした問題行動をしたと連絡が入る。仕事の合間を縫って学校に足を運び、先生と息子とで長い時間話をした。先生は決して息子を責めなかった。問題行動をするには原因がある、そんな話をしてくれたように思う。


そしてその後も、息子は何かと私を困らせる。
私に暴力をふるう。全身全霊で私に体当たりの攻撃をしてくる。小学1年生の小さな体はまだ私の力で抑え込めるほどだったけれど、同じことを中学生や高校生にやられたならば殺されてしまうだろうと思った。
夜中に家を飛び出すこともあった。暗い夜道で私が追いかけ、捕まえようとするとするりと逃げる。そして少し離れた場所から振り返って私を睨んでいる。私はまた追いかけ彼を捕まえようとする。でもまたするりと体をかわして逃げ、振り返って私を睨む。
見る、見つめる、眺める、とかいうゆるやかな言葉には収まらない、強い力が彼の目から私に向けて放たれていた。
あの時の彼の目が忘れられない。

だけど彼は、決して私から見えないところには逃げなかった。私から見えるところに逃げて、振り返って私を睨んでいた。


ようやく私は彼の気持ちに気づいた。

彼は、私に捕まえてほしかったのだ。
彼は、私にサインを出していたのだ。

私は仕事によって3人の子ども達との時間が失われたことを悔やんだ。
そして仕事なんか放り出して、愛する子どもたちのもとに帰りたいと思った。

どんなに頑張って仕事をして、お金を稼いでお金で買える幸せを子どもに与えても、我が家はあのままでは気持ちはバラバラ、きっと崩壊してしまっていたと思う。
今思えば、彼がもっと自分を見てほしいという気持ちを抑え込まず、サインを送ってくれて本当に良かったと思う。

時代は平成から令和となり、男女差への意識はさらに薄くなり、主夫や主婦、男女が同じように社会的な収入を得るための仕事を持つことが当たり前となっている。

LGBTQへの理解もますます深まり、子どもを産むことについてのそれぞれの考えや置かれた状況の違いがあることも理解したうえで、自分の経験からの感覚を、誤解を恐れずここに書かせてもらうならば、

動物の雄は獲物を採りに巣の外へ出かけ、雌は巣の中で子どもを守る。
古代の人間も、男は食料を得るために狩りに出かけ、女は子どもを抱いて火の周りに座りそして子どもを守った。
そんなヒトとしての本能のようなものを、私は自分の子どもとの関わりの中で思い出せたような気がする。
私たちはヒトとして子どもを愛することを、もっと優先してもいいんじゃないかと思う。
もしかしたら、そんな自然の本能が発揮されにくい社会になっているかもしれない、そう思う時がある。

男女の雇用機会均等や共同参画、幼児教育無償化、待機児童の解消など、法の整備が大人の目線で進められている。だけど、子どもの目線からはそれらはどう映るのだろう。

子どもはきっと、お母さんと過ごしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?