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「リモートワーク疲れの正体」考えてみた。

コロナの中で、この半年ほど、世界中でリモートワークの導入が加速してきたと思いますが、僕の周りでも、リモートワーク疲れのような話をよく聞きます。そこで今日はリモートワーク疲れの正体が何なのか、少し考察してみました。
「リモート」と「対面」が、何か違うことはみんな感じていることだと思いますが、どうもその違いはオーラや精神論で語られがちに感じるので、なるべく細かく、その違いや要素を考えてみました。

まず、前提としては、リモートワーク疲れについてもいろんな要素があると思いますが、これまで「対面で打ち合わせ」をしていたとき比較して、「リモートワークでのビデオ打ち合わせ」は何が違うのか?をベースに考えて行きたいと思います。

始めに、関連記事でよく目にするのが、リモートワークだと視点が動かなくなるので疲れる説です。現実の対面の打ち合わせなどの場合は、相手の顔や手の動き、手元の資料、オフィスの風景など、いろんなところに無意識のうちに視点を移動していると思いますが、リモートワークではこれら全てが平面のディスプレイに集約されるので、その違いに、身体的にも精神的にもやられているという説です。

次に、リモートワークの打ち合わせの特徴として、画面に参加者の顔が並んでいて、まるで全員から一気に「見られている」ように感じるのがストレス説があります。
対面であれば、参加者は「いま発話している人」の方向を向いていたり、もしくは上記の通り、資料を見ていたり、参加者の手元を見ていたり、視点も様々だったと思いますが、リモートワークでは確かに、まるでずっと自分が見られているかのように視線が集中しがちです。
確かに、これまでこのような機会が「普通」でなかったことを考えると、それが精神的に負荷になる可能性はありそうです。

また、似たようなところで、リモートワークでは自ら設定を切り替えない限り、自分自身の姿も画面に写っている事が多く、これも相まって、自分が「見られている」意識が強まるのでは?という話もあるようです。
確かにカメラにちゃんと自分が写っていないか?見切れていないか?ということを意識しながら会話をしなければいけないのは、対面の会話とは違うと思いますし、また、ちゃんと写っていたとしても自分で自分の一挙一動を見ながら会話するという経験は、対面とは大きく違うポイントかもしれません。

次に語られているのが、リモートワークでの打ち合わせは、仮にビデオをつけていたとしても、何かが「欠けて」いるのではないか?という説です。
これはZoom飲み会がいくら流行っても、やっぱり対面で飲み会をしたいという話が聞かれるのと同じで、スピリチュアルな話ではなく、おそらく何かが違うからこういう声がでてくるのでしょう。

そう考えると、対面とリモートで、明確な根本的な違いは「相手が物理的に目の前にいるかどうか」だと思います。
そこから対面とリモートの違いをいくつか考えてみると、1つ目は「立体視」の違いでしょうか。どうしても現在の技術ではビデオをオンにしていても、そこに映る相手の姿は平面で、対面よりも得られる情報量が少ないのは事実でしょう。

2つ目の違いは「空気の振動」でしょうか。私達は発声することや、身振り手振りをすることで、普段あまり意識しませんが、お互いの間に流れる空気の流れを変えているわけで、こういった空気の動きを、非常に繊細に人間の身体は感じている可能性があります。こういった微細な感覚がリモートと対面で異なる可能性はあるかもしれません。

3つ目の違いは「温度」だと思います。考えてみると当たり前ですが、対面の場合は、目の前に約40度の肉体が存在するわけです。複数人との打ち合わせなどであれば、40度の個体が目の前に3-4つあるわけです。これは普段は無意識とはいえ、人間の身体は明確にその熱を感知しているでしょう。議論が白熱して、誰かの体温が上がったり、そこから発声される息の温度の高まりなども相まって、物理的に場の「空気」の温度も変わるでしょうし、最終的にそういったものが「空気感」や「圧」みたいなものを生んでいる可能性もあるのではないでしょうか。

また、「相手が物理的に目の前にいるかどうか」は、上記のような物理現象としての違いだけではなく、そのことによって影響をうける私達の心理状況にも、違いを生むのではないでしょうか?
例えば、生物の本質的な感覚に立ち戻ると、「相手が物理的に目の前にいるかどうか」とはつまり「何かが起きたら、ともすれば、この個体に殺される危険があるかないか」「何かが起きたときに、この個体に助けてもらえる可能性があるかどうか」の違いといえるでしょう。

「何かが起きたら、ともすれば、この個体に殺される危険があるかないか」は、もう少し現代社会的に捉えると、どんなに怖い上司やどんなに怖い先輩との打ち合わせであっても、対面なら「ともすると、叩かれるんじゃないか?」という、自分に物理的な危害を与えられるのではないかという恐怖感を、動物本能的に捨てきれないはずです。
そうしたものから「絶対に叩かれない」のがリモートワークであり、画面を閉じれば「いつでも逃げられる」のがリモートワークであるといえるかもしれません。これは、対面だと何だか「圧」みたいなものがあって、嫌だった上司との打ち合わせが、「リモートワークだと、何だかやりやすい」みたいな現象を生んでいるのではないでしょうか。

「何かが起きたときに、この個体に助けてもらえる可能性があるかどうか」は人間の「群れたい欲」の言い換えと言えるかもしれません。
なんとなく友達との飲み会にも、リアルじゃないと物足りない感覚、リモートだと物足りない感覚があるのも、こちらの影響でしょうか。
動物本能としての「一緒にいたい」、「群れたい」欲というものは、何かがあったときに、自分一人では対処できないことを手伝ってもらいたい、という欲望に集約されると思います。こうした感覚が、さらに高次化されて、人間の社会性にもつながっていると思いますが、この要素がリモートワークによって削られているように感じるのではないでしょうか。
結果として、リモートワークで「一緒にいる」のは、対面と何か違うような感覚を生じさせるのです。

ちなみに、恋愛観点で考えても、この物理的にそこにいない、ことの影響はわかりやすいのではないかと思います。恋人同士の二人の会話もリモートワークと対面では、「触れ合おうと思えば、触れ合える」という前提が違うでしょう。最近はガールズバーやキャバクラがリモート接客を初めたり、相席屋などにおいても同様のスタイルが始まっているようですが、こちらも「お持ち帰り」の可能性がないことは、ナンパ師たちにとっては大きな違いになるのではないでしょうか。

以上、つらつらと考えあぐねてみましたがいかがでしょうか。
みなさんの考えるこれだ!という理由があればぜひ教えてください。

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