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日本語教師日記70.タブーを持たない日本語教師(2)宗教のこと①ざっくりと


トップ写真は、2つの違うアラビア語の書体で生徒に書いてもらった、

かわいい ◯◯子

です。(◯◯子は私の名前です)

これを書いてくれた生徒には、インシャラーとマシャラーの違いや、
現代の中東の国々について、イスラム教について、
本当に詳しく教えてもらっています。


今日から少し、日本語教師と宗教というお話をさせてください。


学生の頃、図象学の講義でキリスト教にはまってから、
いろいろな宗教について、ときどき本を読んだりしていました。

それは日本語教師の仕事に役に立っています。

生徒に訊かれて、
さあ、私は無宗教だから・・で済まされない場合は多いからです。

自分が無宗教でも、歴史的に人間をダイナミックに動かし続けたのは宗教であるのは間違いありません。
現代でももちろん、アメリカの大統領選挙にどんなに深くキリスト教が絡むかとか、テロ問題、中東問題など、浅く話すだけにしても、やはり最低限の知識は必要でした。


大人になるまでの私は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を、
民族も考えもとても違う、別々の宗教だと思っていました。


これらの三つの宗教が、

「誰を『預言者』とするか」

との違いで異なる道を歩んだものであり、いただく神は一つである、
ということを、知りませんでした。


旧約聖書は、もともとのユダヤ教のもの。
イエス出現以前のユダヤ人の歴史と物語です。

新約聖書は、待たれていたメシア(救い主)は、イエス・キリストであるということが書かれたものと、ざっくり思えばいいそうです。

(旧約・新約は、「訳」ではありません。誤解しやすいですね。
これは、契約の「約」です。
古い時代と、また新しい時代に「訳された」聖書、ではなく、
神との契約の最初のものと、新しい契約のもの、と言う意味です)

イエスは、もともとユダヤ教団に属し、律法でがんじがらめであったその教義から、わかりやすい譬え話で革新的な考えを広めた人で、
カルト同然にみなされ、憎まれて磔にかけられました。

イエスを預言者とする立場が現在のキリスト教で、
その後、モハメッドが預言者であるとして始まったのがイスラム教です。

預言者は、「予言をする人」ではなく、神の言葉を「預かる人」だそうです。

なんか、わかりにくいしややこしいし、特に必要がなければ、
知らずに一生が過ぎる類のことですよね。
私もクリスチャンと結婚しなかったり(私と娘らは信者ではないです)、
仕事で必要が感じなければ、何も気にしないでいたと思います。

だって、子供の頃は、神様 というのは、
志村けんの「あたしゃ神様だよう〜」でやるような、
ロン毛の白髪と髭、白い長衣で杖をついたおじいさんで、
願いをたまに聞いてくれたり、悪いことをすると罰を当てる人、
というイメージでしたから。

困った日本人が、「神様仏様」とそのときだけ拝んですがるのは、
仏様は、釈迦如来でしょうが、
日本人が神様! というときはたぶん、神社にいる方の神様だと思います。

日本語教師になって、この前も書きました、日本のお寺で見られる卍とハーケンクロイツの問題はずっと生徒にお話ししてきました。

神社とお寺の違いもよく訊かれますので、さあ・・というわけにはいきません。

困るたびに、「猿でもわかる世界の宗教」的な新書を拾い読みしたりして、
だんだん、持ち駒を増やしていったのが、今の私です。
ずいぶん後手後手です。

でも、私は古事記も大好きですし、
聞き齧りのことを、プロテスタントの人に、カソリックの人に、
また、敬虔なユダヤ教の人やイスラム教の人と話すのがとても楽しいです。

ときどき、失礼な発言を知らずにしてしまい、たしなめられたり、
あれって、こう言う解釈なんですか?と質問して、

「それは70年代に盛り上がった解釈だけど、
今は古いとされています」

などと教えてもらったりして、本当に面白いです。
まさに、門前の小僧習わぬ経を読むと同じで、
聞き齧りのことで突進していくけれど、生徒は辛抱強く相手をしてくれます。



私が学んだ日本語教師養成講座では、

「同じクラスに、ぶつかりやすい違う宗教を持つ人がいる可能性がいるので、
  絶対に宗教の話はしないでください」

と言われて、長く守ってきたのですが、
零細個人商店の塾を開いてからは、そこは気にせず、話すようになりました。
タブーを気にしない、ガラパゴスから来た亀教師、それが私です。



というわけで、少し続きます。

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