見出し画像

反省文 父から子に伝える「日本が植民地にならなかった理由」

 先日、上の子がリビングでYouTubeのゆっくり動画を見ておりました。どうやら日本が列強の植民地にされなかった理由について解説しているもよう。正直「やばいなー、大丈夫かなー、まともな動画かなー」と不安になりました。というのもYouTubeの解説動画はネットで調べただけの知識をまとめただけで、ネットに広がる誤解や偏見を再生産してしまうものも多いのです。一方で昨今、大学の予算が際限なく削減されている影響で、本来なら若手研究者として活躍しているはずの人が、YouTubeで糊口を凌いでいるケースもあるなどという話も目にしたことがあるのでYouTubeの動画だからダメとも言えないですし、そもそも子どもが楽しんで見ているものを禁止しても反発されるだけでしょう。
 どこかでうまく修正するチャンスがあるといいなと思っていると、上の子の方から「日本が植民地にならなかった理由って、何だと思う?」と話しかけてきました。この機会を逃さず、ネットの俗説や偏見を訂正しなくてはいけません。

 というわけで、まずはこの手の動画で一番心配な「過剰な『ニッポン凄い!』」に牽制球を投げることにします。一応ことわっておきますと、自分も人並みの愛国心はあるつもりです。問題なのは「良いものは何でも『オンリーインジャパン』」にしてしまうことで、その辺についてはまた「良い愛国心、悪い愛国心」というテーマで纏めてみたいと思います。
 ということで上の子に説明開始です。記事を書く時と違って文献を参照せずにぶっつけなのが不安ですが、なんとかやっていきます。
「まず一番大きな理由は、『ヨーロッパから一番遠かった』ことだね。とにかくこれが一番。単純にヨーロッパの列強が本拠地からやってくるのが大変で、その間に列強の進出に備えることができた部分もある。鎖国中もオランダを通じて西洋の事情も分析していたので、中国がアヘン戦争やアロー戦争でやられているのを見て、『何が何でも外国人を国に入れない』ではなく『不平等でも開国』と現実的な判断ができたところもあるだろうね。開国の時の条約についても、昔はよくわからないまま不平等条約を押し付けられたって評価が多かったけど、最近は現実的な判断だったと評価されている方が多いみたいだ」
ここまでは改めて振り返っても問題ないと思います。ポルトガルの勢力をはね返して海上帝国を築いたにもかかわらず結局イギリスの保護領となったオマーンの話とかもしたかったけれど、話の焦点が合わなくなるので省略して正解でしょう。
「次には日本では江戸時代までに民間資本が形成されていたことかな。現代の日本はとても平等な社会だから、いい家イコールお金持ちの家という認識になっているけれど、昔はそうではなかったんだ。平民はどれだけ頑張ってお金を稼いでも成金扱いまでがせいぜいで、お金が無くて大商人に返せないほど借金をしている貴族でも貴族で、その間には越えられない壁がある時代の方が長いんだ」
ここらへんは後の話の流れからして蛇足感があるし、かなり言葉が足らないですね。現状の日本では経済格差をもって不平等や分断と表現されているので「とても平等な社会」と言うと新聞やニュースの言ってることと違うと思われそうですが、それとは別次元の断絶があったことがちゃんと伝わったかどうか。また日本の話をしているのなら公家・武士・町人・農民の区別をつけて話すべきだし、一般論として言うなら地域と時代で事情は様々であることをもっと強調すべきだったと思います。ヴェネツィアのように大商人が貴族である場合もありますし。
「貴族が生産物のほとんどを収奪してしまうような社会だと、お金がうまく回っていかない。だけど自分でお金を稼いだ人はもっとお金を稼ぐためにお金を使うことが多い。そうすると世の中にお金が回っていくことになる。江戸時代には日本の町人たちには、ある程度の経済的余裕ができてくるようになった。よくネットで出てくる江戸時代の識字率が凄かったなんていうのも、この経済的余裕と、あと商業が発展して文字を理解する必要があったからだと思うよ。ネットだと江戸時代の識字率が90パーセントとか無茶苦茶なことが書いてあることもあるけど、農村まで含めてその数字は絶対にない。町人だけでも90パーセントはないと思うな。でも誇張されている部分があるとは言え、この民間人である町人階級が資本を蓄え、知的水準を上げていたことが明治以降の近代化を支えたのは確かだよ」
江戸時代の町人・下級武士層の知的水準について、他にも語った気もするのですが、思い出せないので割愛。経済史については勉強が足りないのですが、この位なら間違ったことは言っていないんじゃないかなと思います。
 また貴族の収奪が経済停滞の原因みたいに言ってしまったけど、貴族政の社会では威信材と呼ばれる品物や活動に投資して貴族が権威を高めることが社会の安定に必要というような見方もできるのかもと、後になって思ったりもしています。

「後は日本の場合、日本は日本で他の国とは違う、他の国の一部にはならない、という意識が強かったこともあるだろうね」
ここで自分の頭の中でブレーキが壊れる音がしました。ネットの偏見から子どもを守ると言いながら、別の偏見を自分で植え付けてどうする!と心の中から声はするのですが、以前から考えていたことでもあって口は止まりません。
「もともとは聖徳太子の『日出づる処の天子』の国書だね。この国書に隋の煬帝が怒ったのは、日本の天皇を日出づる処の天子とポジティブに表現して、中国皇帝を日の没する処の天子とネガティブに表現したからだという理解があるけどこれは間違い。中国の世界観では天子と呼べるのは中国の皇帝ただ一人。中国の皇帝は天から世界の統治を任されている存在なわけ。で、中国の外の国も自分から中国の皇帝に『家来にしてください』と申し込んで家来にしてもらうことも珍しくなかった、それで中国の皇帝から『お前を皇帝の家来で〇〇国の王と認める』と言ってもらえると、自分の国では『俺が王様だ!中国の皇帝が俺が王様だと認めたんだぞ』と言える。この関係を冊封と言う。日本でも『漢委奴国王』や『親魏倭王』の金印をもらったのはそういう意味だね。中国を中心とする世界はそれこそ漢の時代、ひょっとすると周かそれよりも前から形式的には20世紀まで、この理屈で成り立っていたんだ。それなのに聖徳太子は『日本には中国とは別の天があるんです。日本の天皇も中国の皇帝と同じで天子なんです。対等にお付き合いしましょう』と煬帝に伝えたんだ」
「そりゃ怒るよね」
と上の子。
「もちろん『聖徳太子、そこまで考えてなかったと思うよ』という意見もあるんだけど、少なくともこの話が日本書紀にも隠さず載っているということは、日本書紀の編纂が始まった天武天皇の時代には、日本は絶対中国の一部にはならない、というのが国の方針としてあったということだね」
華夷秩序の説明は中学生にする説明としてはこの程度かなとも思いますが、中国の王朝が衰えれば冊封国も勝手を始めるし、そうでなくても面従腹背は常。また高句麗の様に中華と真っ向勝負した国もあるし、遼や女真の様に中華王朝に対して優位な和約を結んで貢納を受けていた国もあることもどこかで機会を見つけて補足したいところです。
 遣隋使のエピソードが日本書紀に採用された意味については、白村江の戦い後に唐・新羅の来寇を恐れて必死に防備を固めていたという時代背景からも、中国に従属しないという意思の表れという解釈で間違っていないと思います。
「世界史を見渡してみれば、国内の勢力争いを有利にするために外国の兵隊の力を借りる人物が現れて、そのまま国を滅ぼされるという例がとっても多い。自分の国が他の国に吞み込まれてもそこで自分が偉くなれればいいと、最初からそういう考えで他国に助けを求める例だって少なくない。でも日本にはそういう人物がほとんどいないんだ。海を隔てているせいで外国の軍隊なんか呼べなかったという要素も勿論大きいんだけど、ヨーロッパが大航海時代から植民地帝国時代になって、ヨーロッパの国が日本に軍隊を送り込むのも不可能じゃない時代になってもそういう人物は僕の知る限りいないね。戊辰戦争に際しても、お金は借りたし武器も売ってもらったけど、兵隊を出してもらってはいない。新政府側はイギリスから軍事援助の話を打診されても西郷隆盛が断ったくらい。たぶん『日本は中国とは違う独自の世界だ、中国の一部にはならないんだ』という意識が、近代なると西洋に対しても働いたんだと思う」
「断られた方は驚いたろうね」
「そうだろうね。まあ僕の思いつく限りで『日本が植民地にならなかった理由』はそのくらいかな」

 こうして上の子との会話、というか一方的な独演は終わったのですが、自分でも暴走している自覚があっただけに、反省点も多々。
 ツッコミどころとしては日明貿易で日本国王に冊封された足利義満(と懐良親王)の存在。これについては僕としては、天皇に臣下の礼を取らせるわけにはいかないから、という解釈です。
 戦国~江戸初期に独自に西洋と結びついた大名には現代の価値観で見て売国的と言える行為をした人物はいないのか?これは僕自身の勉強が足りていない部分もあるので、なかったとは言えないです。特にキリシタン大名が信仰に基づいてそれと意識せず、領地の寄進など行っていた例があるかもしれません。教会の用地くらいの寄進なら売国的とまで言えないとは思いますが。
 ここまでの2点はまあまあ些末なツッコミであるんですが、次はもう少々深刻で、他国の軍隊を引き入れる行為について批判的に言ってしまったこと。これは近代的な国家観から見れば悪い行為と言えますが、西洋であればキリスト教世界(あるいはイスラム教世界)という大きな枠の中に自分の領地があって国という意識は希薄であるように思えるので、近代的なナショナリズムが広まるまではキリスト教世界・イスラム教世界の越境が無ければ、そこまで悪いこととも思われていなかったかもしれない、ということは省略してはいけないことだったのではないかとも思えます。子どもに誤ったイメージを植え付けてしまったかもしれません。
 次もイメージの問題ですが、まるで近代的なナショナリズムが日本では7世紀から一貫して存在していたように話してしまった点も大問題ですね。7・8世紀の朝廷の持っていた世界観が現代人の世界観と一致している筈がないし、武家社会の時代のそれもまた現代とは違うものです。江戸時代に生まれた国学は近現代の国家観に繋がるものだとは思うのですが、だからと言って同じものであるかのように扱うことができるものでもないでしょう。

 最大の反省点は日本が植民地にならなかった理由がもう一つあるのに言わなかったこと。そこまで思い至らなかったことです。4つ目の理由は「日本は列強の一員として、他国を植民地にする側に回ったから」です。日本は封建制に基づく幕藩体制から近代的な中央集権国家に移行する際に、境界的な領域だった蝦夷地、琉球、小笠原などを版図に組み込みました。日清日露戦争を経て台湾・朝鮮も領有し、中国に植民地的利権を設定する競争に参加しました。それをしなければ日本が滅んでいたかもしれないこと、アイヌや琉球の人々ついで台湾・朝鮮の人々の民族的アイデンティティを傷つけたこと、これらの領域は日本が併合しなければどこかの国に侵略される運命にあり独立を維持する可能性はほとんどなかったことは、それぞれ別のレイヤーに載っている事実であり、切り分けて評価すべきものではないかと思います。仕方なかった、どうせどこかの国に支配される運命だった、は日本の支配を免責しませんし、逆に日本が併合した土地の人々のアイデンティティを傷つけ時には物理的被害を与えたことは、当時の日本人が独立を維持するために必死だったことを否定しないと考えています。ですが思想的偏りを排して中学生に解りやすく伝えるのはどんな言葉を用いてするべきか、難問です。また日本が他国に領土を広げて行こうとする方針は、第一次世界大戦後のヨーロッパで広がった平和を求める空気の中でも止まらず批判を浴び、それに反発したことが最終的に敗戦に繋がることまで説明しようとするならなおさらですね。

 日本が他国の植民地にならなかったことは事実です。また歴史のテーマとして何故を問うことも間違いではありません。ただ気になるのは「植民地にならなかった日本」という表現には、植民地にならなかった日本は優れていたという視点が絶対に付いて回ります。これが逆転して植民地になった国は日本に比べて劣っていたという評価に転換することが有りはしないか。これらの国々を見下す姿勢に繋がりはしないか。それが気がかりで、日本が植民地にならなかったのは優劣と言うより、巡り合わせだという部分を伝えたかったのですが、成功しているかどうか。
 近現代史はどうしても価値観、評価が現在とリンクしてしまい、更には当時を生きた当人や、その近い子孫が存命だったりして、なかなか客観的な視点を持つことが難しいと思います。子どもに偏見無く、までは無理でも別の視点からの情報に出会った時に頭から否定するのではなく自分で比較できるくらいには柔軟に考えられるよう歴史を教える。難しいですがやるべきことなのでしょう。
 まずははこの記事のURLを上の子に送って、この間言葉の足らなかったことを補ってもらうことにします。

 追記
 この記事にうまく組み込めなかった、断片的な文章を次の記事に纏めました。


 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。本業のサイトもご覧いただければ幸いです。


もしサポートいただけたら、創作のモチベーションになります。 よろしくお願いいたします。