世界史 その17 縄文時代
今回は縄文時代。高校世界史では倭国として中国と関わるまで日本については記述がないので、日本史でのみ扱われる時代となる。だけれどもこの世界史シリーズは学校のカリキュラムに従っているわけではなく、日本だって当然世界の一部だ、というスタンスでいくつもりだ。既にサブサハラ地域の農耕開始なども取り上げたように、教科としての世界史では取り上げられにくい時代や地域についても押さえていきたいと思っている。
問題がひとつ。僕自身が高校では世界史選択、大学でも史学科ではなかったので、しっかり日本史をやってこなかった。おかげで自国史である日本史についてもアメリカ合衆国史とかイベリア半島史などと比べて、特別よく知っているという気がしない。高校日本史としてはどの内容を押さえておくべきか、という部分もはっきりわからない。でもせっかくなので、しっかり勉強する機会にしたいとは思っている。
さて日本列島では現在まで原人・旧人は発見されておらず、約4万年前に現代人と同じホモ・サピエンスがやってきたのが人類最初の居住者となる。遺伝子の分析と石器などの遺物の分析を見ると、北海道からと九州からの2系統の人々が日本列島に入ってきたようだ。旧石器時代に日本に移り住んだ人々の子孫が縄文時代の文化を担った人々で、縄文時代の間は日本列島への大規模な人口流入はなかったらしい。
1万6500年前に最古の土器が発見され、縄文時代と見做され得る時代に入る。「見做される」ではなく「見做され得る」というのは、気候の温暖化にあわせて土器が普及したと考えられる1万5000年前や、縄文時代特有の文化がはっきり姿を見せるようになる1万1500年前を縄文時代の始まりとする見解もあるからだ。
縄文時代の終わりについては、水田による稲作の開始をもって弥生時代の開始とする意見が多いようだ。しかし水田による稲作の開始は、地域によって年代にかなりの開きがあることには注意が必要だ。僕がまだ若い頃、「縄文時代の稲作跡」が発見されて新聞などでも大きく扱われていたことを覚えている。結局は弥生時代の開始が繰り上がり、水田での稲作が行われている時代は弥生時代だということになったようだ。イネ以外の作物の栽培については後で述べる。
「1万年以上続いた縄文時代」などというフレーズを目にすることもあるが、勿論その期間全く同じような文化が日本中同じように営まれていたわけではなく、文化は時代と地域によって大きく異なっていることは意識しておきたい。
地域的には北部と東部を除く北海道から、沖縄までほぼ現在の日本の国土と重なるのは、日本史というカテゴリーの中で考案された時代区分だからで、日本の統一性を強調する政治的な概念だからと言うこともできるが、それでもこの時期と地域に含まれる多くの文化には連続性と共通性が認められ、それを一つの用語で表現することは十分な妥当性があるように思える。
ただし南西諸島については、縄文文化との共通性よりも独自性を重視して独立した文化と見る意見もある。その場合は「沖縄縄文文化」や「前期貝塚文化」と呼ばれる。
さて縄文時代はとても長い時代区分のため、更に6つの時期に区分される。1万6500年前~1万1500年前の草創期、1万1500年前~7000年前の早期、7000年前(紀元前5000年頃)~5470年前(紀元前3450年頃)の前期、紀元前3450年前~紀元前2300年頃の中期、紀元前2300年前頃~紀元前330年頃の晩期となる。
草創期は未だ氷河期のただなかだった1万6500年前に最初の土器の出現によって始まるが、すでに述べたようにこの時期を縄文時代に含めない意見もある。
土器は主に食物を煮る目的で生まれ、道具の原料を加工するために煮沸するためにも使われた。以前は縄文土器は最古の土器とも言われていたが、現在はより古い1万8000年前の土器が中国で発見されている。
1万5000年前頃になると環境が急速に温暖化し、森林の植生も落葉広葉樹が増えてくる。新たに森林の主役となった木々の落とすドングリは、人々の食料に取り入れられる。この時期には遺跡の発見例も多くなり、土器や石鏃も出土数も増加する。
1万3000年~1万1500年前には一時的に激しい寒冷化が起こった。この時期には土偶が作られ始めている。木材としても食料としてもクリが利用されるようになる。
寒冷期が終わり完新世に入ると、歴史学的な時代区分も早期に移行する。気温は現代よりも高く、海岸線は現代より内陸にあった。
この時期には定住傾向が強くなり、集落の外側に貝塚が見つかるようになる。同時に10棟ほどの竪穴住居が存在したと見られる大きな集落も発見されている。定住によって死者を墓地に祭る必要から、祭祀も発達したようだ。
この時期にイヌの飼育が始まっている。イヌはおそらく狩猟に使われた。人間同様に手厚く葬られた例も多い。
植物性の籠など植物の利用も発達し、最古の漆器も登場する。
前期~中期には主に東日本で集落の更なる大型化が進む。有名な青森の三内丸山遺跡もこの時期の遺跡だ。三内丸山遺跡の集落周辺にはクリの木のみの林が形成されていたが、このような植生は自然には存在しないので、クリ林を管理する何らかの働きかけがなされていたと考えられる。実際に集落が廃絶するとクリ林はナラ林にとって代わられている。他にもこの時期の遺跡にはダイズ、アズキ、エゴマ、シソなどが栽培されていた痕跡のみつかるものがある。これらを縄文時代の農耕とする意見も強いが、人々の生活を変え縄文文化を農耕文化に変えてしまうようなボリュームのものではなかったようだ。
環状集落などの大型集落や大型の貝塚など、定住が進むことで人々の生活は複雑化してゆく。大型集落の周囲に小型の集落があるなど、集落間での分業を推測させる証拠も増えてくる。
中期になるとハマ貝塚と呼ばれる貝塚が出現する。通常の貝塚は生活の中で発生した廃物の捨て場である。貝だけでなく獣骨や植物の殻、時には人間が埋葬されることもあり、縄文の人々が貝塚を単なるゴミ捨て場ではなく、役目を終えた品物に何らかの宗教的な感情を持って安置する場であったとも考えられる。対してハマ貝塚は貝殻のみでできている貝塚だ。東京都の中里貝塚の場合はマガキとハマグリが交互に積み重なり、1年に2回の採取シーズンがあったと推定されている。集落から離れた場所に泊まり込んで、貝を採取し煮込んで干し貝を作る作業を行った。規模からいって複数の集落の人々が係わっていたと考えられる。また採取される貝の量は、周辺の集落での消費量を越えており、遠く内陸の集落までも流通していたと考えられる。縄文時代の交易の例としては他にも伊豆諸島の神津島産の黒曜石が関東一円で利用されたこと、新潟の糸魚川産のヒスイが広く利用されていたなどの例がある。
この時期には人々の生活は集落の枠を超え、周辺の集落と協力するだけに収まらず、広い地域を覆う交易ネットワークができあがっていた。交易ルートと物流センターが存在し、各種の物資が行き来していた。この時代には墓地の中心に装身具とともに葬られるなどする人物も現れ、社会の複雑化・階層化が進んだことがわかる。これも交易によって社会の富が特定の人物に集約することになったのためかもしれない。
縄文中期と後期の境となる紀元前2300年頃、気候が冷涼化し、現在の海岸線よりもかなり内陸に入り込んでいた海岸線が後退した。東日本では大型の集落が姿を消し、集落が小型化して人口自体も減少した。逆に西日本では中期末から集落・住居跡が増加し、東日本の様式が取り入れられている。東日本から西日本への人口の移動が推測される。
交易については交換用の物資の生産が活発化する。交易ネットワークの発達によって、集落間の分業が進んだと言える。専用の土器を使っての製塩、祭祀用の大型石棒などだ。長野県鷹山遺跡群では縄文前期から黒曜石の採取がされていた可能性があるが、後期には地表での採掘が困難となり採掘坑を掘って採掘するようになっていた。195か所の採掘坑が発見され、鷹山遺跡と同一の組成の黒曜石は東北南部から近畿東部までに広がっていた。
大きな貝の周囲をわざわざ削ぎ落して大きさを揃えた貝輪は交換品として品物が規格化されていたことを示しているし、一目でわかる特徴をつけた装飾品はブランド化されていたのかもしれない。
縄文後期には装身具や墓からして階層化が進展していたように見えるのだが、持続しなかったものも多い。集落ごとに社会の階層化が進んでも数世代でまた解消されたりを繰り返したようだ。
縄文晩期には亀ヶ岡式土器が登場し、東北を中心に北海道南部から近畿地方まで分布する。同時期には有名な遮光器土偶も登場する。これらの亀ヶ岡文化では多くの漆工製品、祭祀に使う呪具が出土し縄文文化の到達点を示している。
九州北部では縄文晩期に開始から200年程度、紀元前1000年頃には水田による稲作が始まる。稲作は数百年かけて日本列島を東北北部まで伝播する。しかし東北の北端では、一度導入された稲作が放棄された例もある。
水田による稲作の開始は縄文時代の社会を決定的に変化させ、日本の多くの地域は弥生時代へと移行していく。ただし北海道や沖縄では稲作中心の文化へは移行せず、それぞれ「続縄文文化」「後期貝塚文化」と呼ばれる時代区分へと移行してゆく。
縄文時代と一口に言っても非常に長い時代区分だ。逆に縄文時代一万年という言葉がクローズアップされすぎると、同じような生活が延々と続いてきたようなイメージにもなりやすい。しかし当然ながら、人々の生活の様相には時代と地域で大きく違いがあり、人々は外的な環境に柔軟に対応して生きてきた。
この全体を纏めるには僕自身もまだまだ勉強不足の部分が多いので、今後も勉強を続けていきたいジャンルである。
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