ヒッタイト 総まとめ

 ここまで3回にわたってヒッタイトについて纏めてみたのですが、これでは少々ボリュームが多すぎで、まず高校世界史レベルで世界史を纏めていって、細かい話はその後にという方針にも反しますので、上手く本文に組み込めなかった内容も含めて纏めてみたいと思います。

概要

 ヒッタイトは紀元前2000年紀のアナトリアで強大な国家を築いた民族とその国家を指す。紀元前1650年頃、アナトリアに統一的な国家が建国され、「ヒッタイト古王国」と呼ばれる。古王国時代のヒッタイトはバビロン第1王朝を滅ぼした。
 紀元前16世紀~15世紀半ばまでヒッタイトは王家の内部抗争などで国力を大きく落とすが、紀元前1450年頃から新たな王朝の元で再び発展する(「ヒッタイト新王国」)。新王国はミタンニの首都を占領して衰退に追いやり、パレスティナの覇権を巡ってエジプトと争った。有名な「カデシュの戦い」とそれに続く世界最古の平和条約は、このエジプトとの抗争の一端である。
 紀元前1200年頃、ヒッタイトは滅亡する。一般には「海の民」の活動と、それに伴う混乱によるものと考えられている。

名称

 ヒッタイトの名称は聖書に出てくる名で、この民族/国家が聖書に登場する「ヒッタイト」と同一であるという推測に基づく名称である。彼らの自称としては王国とその首都は「ハットゥシャ」と呼ばれた。また当時の国際語であったアッカド語では「ハッティ」と呼ばれる。これらの国名/民族名はヒッタイト人以前にアナトリアにいた「ハッティ人」から受け継いだ名称となる。
 ヒッタイト=ハッティという理解からか、この先住民族の「ハッティ人」を「先ハッティ人」と表現している本も少なくないので、注意が必要である。
 ヒッタイトの首都をボアズキョイと表記している本もあるが、これは現在ハットゥシャと同じ場所にある村の名前、現在の地名である。僕が高校生の頃は「ボガズキョイ」と表記してあることが多かった。

ヒッタイトと鉄

 ヒッタイトは鉄の加工を始めた民族として知られるが、もともと隕鉄の利用は広く行われており、鉱石からの鉄の精錬にしてもヒッタイト以前のハッティ人が既に始めていた。これは銅や鉛の生産に鉄鉱石を使用したため、副産物として得られたのが最初ではないかと考えられている。
 広く信じられているところでは、ヒッタイトは製鉄技術を独占し、鉄の武器を使用することで大帝国を築いた。海の民によってヒッタイトが滅亡すると製鉄技術が広く伝播し、西アジアや東地中海地域が鉄器時代に入るとされている。
 しかしヒッタイト時代においても鉄器の出土数は多くなく、また武器に利用するためには鋼を生産する技術や焼き入れの技術が必要だが、偶然ではなく意図的に鉄に炭素を浸透させているのが確認できるのは紀元前12世紀のキプロスであり、ヒッタイトが大量の鉄製武器の使用によって覇権国家となったという理解は、考古学的な証拠からは裏付けられない。これについて硬度を上げる技術を欠いている場合、生産できる鉄は武器や道具として青銅器に劣るということは押さえておきたい。
 ただし文献史料から、ヒッタイトが当時としては特別な関心を鉄に向けていたことは確かである。
 ヒッタイト滅亡後の鉄技術の拡散についても、ヒッタイトが秘匿していた鉄技術が滅亡によって流出したというよりも、海の民の活動によって青銅の原料、特に錫の流通が滞ったため、代替品として鉄が利用されるようになったと考える方が適切であるとの見方が出てきている。
(詳しくは下のリンクの「古代西アジアの鉄製品 -銅から鉄へ-」という記事をご覧ください。)

関連リンク

 過去3回に分けてヒッタイトについて語ってきた記事はこちら。

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