世界史 その20 フリ人とミタンニ

 フリ人(フルリ人)は紀元前2千年紀を中心に北部オリエントの広い範囲で活動していた民族で、ミタンニ王国はフリ人の国家の中で最大のもの。どちらもその活動していた地域の広さと活動期間の長さ、周囲への影響力に比べて、余りにわかっていることが少ない。かつてはインド・ヨーロッパ語族と考えられていた時期もあったが、現在ではコーカサス語族に属すと考えられている。フルリ人と表記する場合も多いが、参考にした本がフリ人表記のため僕もフリ人と表記する。

 紀元前24世紀、アッカドのサルゴン1世の時代にはすでに北部メソポタミアにフリ人が居住していたと考えられる。その後ザグロス山脈から襲来したグティウム人によってアッカド王朝が倒れると、その空白にフリ語の名前を持つアタル・シュンが国を建てた。
 ウル第3王朝期には現在のトルコ南東部、イラク北部、イラン北西部にフリ語の名を持つ王を戴く都市がいくつも現れ、更に古アッシリアやバビロン第1王朝の時代にはメソポタミア北部やシリアにもフリ人が広がる。バビロン第1王朝とハンムラビについて扱った世界史その9で登場したマリ王国出土の文書にも、多数のフリ語の人名がみられ、中にはフリ語の文書も含まれていた。紀元前17世紀から前16世紀にはフリ人がヒッタイトを襲撃した記録がある。
 紀元前3千年紀末から記録に現れるハビルと呼ばれる集団は、国家や伝統的社会に服さない人々を指したらしいが、その中にも多くのフリ人が含まれていたようだ。

 ミタンニが記録に登場するのは紀元前1500年頃。最古の記録はミタンニ出身のエジプトの役人の墓碑銘であり、銘文からはトトメス1世がミタンニの王と戦ったことが知られる。その後はミタンニ勢力下に入ったことのある都市から、多くの文書が出土している。しかしながらミタンニの都ワシュカニは未発見で、ミタンニの建国からそれらの文書の時代までの歴史は良く分かっていない。
 紀元前15世紀中ごろ、王サウシュタタルの時代にミタンニは最盛期を迎え、貿易都市ウガリットを一時的に支配下に置いたり、アッシリア中心部に攻め入って大打撃を与えるなどした。その後は政略結婚を進めるなどエジプトとの関係を深めるが、王家の内部での争いが激しくなり、王の暗殺や、王権の分裂などが出来した。それに乗じたヒッタイトによって領土を奪われ、紀元前13世紀中ごろにはヒッタイトとアッシリアの緩衝国に転落した。いつどのように滅亡したのかは定かでないほど小さな勢力として、歴史の中へ消えていった。
 北シリアにはミタンニの別名ハニガルバドを名乗る小国があったが、彼らがミタンニの直接の後継国家であったかも不明である。

【2021・12・27追記】
 この文章はミタンニはフリ人の国、という説に基づいて書いたもので、ミタンニをインド・ヨーロッパ語族とする説はかつての説と退けている。だが新しい本でもミタンニの被支配者層はフリ人だが、支配者としてインド・ヨーロッパ系のミタンニ人が独立した民族として存在していたとしている本があったので、その説も併記しておきます。

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