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世界史 その9 バビロン第1王朝とハンムラビ

 さて世界史その8に続いてここではバビロン第1王朝について語っていこう。内容的にはその8、その9じゃなくてその8の1、その8の2というナンバリングにした方が良かったかもしれない。

 バビロン第1王朝は高校の教科書では単にバビロニア、あるいは後の新バビロニアと区別するため古バビロニア王国と呼ばれる場合もある。
 高校世界史レベルならバビロニア、ハンムラビ王、ハンムラビ法典、復讐法、「目には目を、歯には歯を」という5つの単語が頭の中で続けて出てくれば充分だろうと思う。
 でもそれだけでは味気ないので、もうちょっと詳しく見ていきたい。

 都市としてのバビロンが文献に現れるのはアッカド王国時代の紀元前23世紀のことなので、紀元前4000年紀まで遡れるシュメールの諸都市と比べるとやや新しい街だと言える。
 アッカド王国やウル第3王朝の支配下にあったバビロンは、ウル第3王朝滅亡後にアムル人の王を戴く国家となり、周辺の都市や小国を統合・征服してバビロニアの北西部を支配下においた。その後もバビロンの歴代の王は支配地域の拡大を目指していたが、あまり上手くはいかなかったようだ。

 ハンムラビがバビロンの王位についた紀元前1792年は、古アッシリアのシャムシ・アダド1世がマリ王国を征服し、北部メソポタミアを統一した年でもある。ハンムラビの治世の初期、バビロンはシャムシ・アダドの宗主権の元にあったようで、ハンムラビとシャムシ・アダドの名前が併記された裁判記録や、エシュヌンナ王国との戦争をシャムシ・アダドの元で戦った記録が残っている。
 シャムシ・アダドの死後、その征服した領土は失われ古アッシリアの領土は縮小した。ジムリ・リムという人物が、アッシリアに占領されていたマリ王国を復興した。内紛と古アッシリアの占領の間、ハラブ(現在のアレッポ)を首都としてシリア地方にあったヤムハドという国に亡命していた人物だ。メソポタミアの東に位置するエシュヌンナ王国も再び北メソポタミアに侵入した。そんな中ハンムラビも古アッシリアの宗主権から独立。エシュヌンナの脅威に対してマリ王国と同盟していたが、互いに充分に信用できず、かなり緊張感をはらんだ同盟関係だったようだ。同じ頃、南部メソポタミアではラルサ王国がイシン王国を併合した。
 このような状況の中、勢力の均衡によって10年程度平和な時代が続いたらしい。マリ王国の外交文書にバビロン、ラルサ、エシュヌンナ、カトナ、ヤムハドの王がそれぞれ10~15人の王を従えている(ヤムハドのみは20人)とあり、当事者であるマリを含めて6ヶ国が並び立っていたと考えられる。今までほとんど、あるいは全く名前の出てきていないヤムハドとカトナはメソポタミアから少し外れたシリアにあった国だ。この平和の期間にハンムラビは神殿や城壁や灌漑用水路を整えることに注力することができた。

 その後の戦乱についても、他国から本国へ送られるマリ王国の高官たちの書簡でかなり詳しく追うことができる。まずはイランに本拠地を置くエラムがエシュヌンナ王国に攻め込み属国化した。この時ハンムラビはエラムに協力したが、占領した都市をあけわたすようにエラムから要求され、エラムの次の標的となってしまう。エラムはバビロンと北部メソポタミアに進軍した。北部メソポタミアに向かったエラム軍には、マリ王国が対抗するために出兵しているが、ハンムラビはマリ王国の兵がバビロンに向かうことを警戒していた。北メソポタミアのエラム軍の指揮官だったアタムルムという人物が、増援を断られたことをきっかけに離反。エラムはメソポタミアから撤退した。
 エラムの撤退後、ハンムラビはエラムとの戦いで援軍を出さなかったのみならず、国境を侵犯していたラルサに対して遠征した。これがハンムラビにとって初の外征となった。ラルサを滅ぼした後、ハンムラビは北メソポタミアに遠征し小国群に覇権を示した後、マリ王国を滅ぼして全メソポタミアを統一した。

 メソポタミア統一という政治・軍事面以外では、多くの運河を掘り(掘るという動詞が使われているため、新たに開削したのか浚渫して整備したのか、碑文からは判断がつきにくいとのこと)メソポタミア全土に農業用水を行き渡らせたことは忘れてはならない。しかしハンムラビといって多くの人が思い浮かべるのはハンムラビ法典だろう。「目には目を、歯には歯を」という言葉で知られる復讐法の原則や、加害者、被害者の身分によって量刑が変わる点などがよく指摘される。もう少し歴史に詳しい人だと、同害復讐法というのは「やられたらやり返せ」という過激なものではなく、目を潰されたからといって相手を殺してはならない、目を潰されたのなら相手の目を潰す、歯を折られたなら相手の歯を折るのに止めよ、という形で憎悪の連鎖を抑制するものだということも知っているだろう。
 ところが今回勉強し直してみると、復讐法ってやっぱり過激なのでは?という感想をもった。比較対照はウル第3王朝時代のウルナンム法典だ。ウルナンム法典では被害者の損害に対しては、経済的な賠償で償うことを基本としている。この賠償による解決はハンムラビ法典にも多く引き継がれているのだけれど、ハンムラビ法典では新たに復讐法による解決も追加されている。参考にした本の中には、アムル人が元来家畜を追って移動する遊牧民であったことを指摘して、遊牧民的な要素がハンムラビ法典の特色に繋がったのではないかと推測しているものもあった。また被害者が一般自由民であった場合は賠償による被害者の救済が優先され、被害者が上層自由民の場合に復讐法が適用されることから、復讐法は社会の脅威を排除するためという解釈をしていた本もあった。
 ハンムラビ法典は慣例的に「法典」と呼ばれてはいるけれど、実際には判例集であり、法規が書き連ねられているわけではない。またその判例も模範的な状況を仮定してのもので、実際の判例というわけではなさそうだ、ということも最後に指摘しておきたい。

 ハンムラビは法典の制定者であっただけではなく、様々な訴訟に対して実際に判断を下す裁定者でもあった。ラルサの高官に送られたハンムラビの書簡が残っているが、こんな裁判まで王様が裁定するのかと驚く。事実認定には慎重に複数の証拠や証言を比べたり、判断の根拠となった証拠を明示したりする。時には証人をバビロンに呼び寄せたり、より詳しい調査を命じたりもする。調査結果を報告することを強く念押ししたりもする。公職にある人の不正には厳しく、弱い立場の人々に寄り添おうとする。書簡からうかびあがってくるのは、理想的な裁定者であろうと努力する姿だ。
 後世、常に法典とセットでその名が語られる王にふさわしい姿と言えるのではないだろうか。

 しかしこのような超人的な王に支えられた国が、その支えを失ったらどうなるのだろうか。ハンムラビの死後その息子サムスイルナの代で国土の全域に及ぶ大反乱があり、紀元前1732年から数年の反乱でシュメール地方では経済の基盤が根本から失われてしまった。新たな異民族としてカッシートの名前も登場する。
 王朝自体は衰退しながらも、ハンムラビの死後150年以上存続したが、ヒッタイトのメソポタミア遠征により滅亡した。

参考文献

『世界の歴史1人類の起原と古代オリエント』
 中央公論新社

『ハンムラビ王法典の制定者』
 山川出版社 世界史リブレット人
 中田一郎

トップ画像はルーブル美術館のサイトより、ハンムラビ法典の碑。利用規約に従ってお借りしました。向かって左がハンムラビ王、右が太陽神シャマシュです。
© Musée du Louvre / Maurice et Pierre Chuzeville

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