そろそろ責任を取りたい。「私」だけではなく「我々」が。
手元にある内田樹「困難な成熟」という本の帯には本文より下記の文章が載っている。
一つ目の問いはこうでした。
「責任を取るということは可能でしょうか」
僕の答えはシンプルです。
「不可能です」
以上、おしまい。シンプルですよね。
でも、どうして責任を取るということが不可能なのか、その理路を語るためには、ずいぶん長いお話に付き合ってもらわなければなりません。
そろそろ他人のせいにするのは止めませんか。
本文では、原理的にはあらゆる「現状復帰」は不可能であるという要旨が説明される。
「責任を取れ」という他責的な文脈だと、果ては「結して許さない」という主旨にしかならず、結果責任が取れないということだ。
責任は他人に押し付けるものではなく、自分が主体的に取って行くもの、自分で引き受けていくものである。
内田樹の語り口は軽妙かつ明快で素晴らしい。
かくて私はこの言葉の行動者たることを目指した。
どうして政治を志したのか。
以下の文章は投票1ヶ月前の2019年3月に投稿したものである。結果は3066票をいただくも落選。しかし爽やかであった。
私たちが「政治」について語る時、そのほとんどの文脈は批判に尽きると思います。国政に限らず市政においても「行政」はいつも悪者にされて、糾弾される対象になる場面が多いのではないでしょうか。
私もその一人でした。あたかも自分が「神の視点」に立ったが如き言動が、政治を語る際には許されてしまう。これは文化人や有識者が「政権批判」をテレビでしている際に覚える違和感と同じだと思います。
それはどこか政治を「他人事」として捉えていることが原因ではないでしょうか。
地元なのに、せっかく自分が育った地域なのに、そこに参画する「自分」を棚にあげて「誰か」がそれ(社会問題or社会ニーズ)をやってくれることを「無責任」に期待する。私もそんな無責任な市民の一人でした。
そろそろ政治を「自分事」として捉えなければならない時期が来ているのだと思います。
私は「自分事」として政治を実現する政治家になります。批判や嘲笑の矛先になるでしょうが、それでも自分の頭で考え、圧倒的な行動力で、その時点でのベストな政策を打ち出します。
政治が私たちの生活からこれ以上解離しないため、行動を起こすのは「今」だと判断しました。
本の活動で見つけた地域の課題を未来のために「いま」市政に届けます。
今後とも宜しくお願いします。
果たすべき責任を引き受けて行く未来へ。
先行する他者が築いてきた仕組みに関して、文句を言うだけでは決して何も変わらない。
ならば何らかの行動を起こし続けて、建設的な端緒を掴む努力を積み重ねなければならない。
別に政治に限らず手段は如何様にもあるように思われる。些細な日常での一幕に「私が」という文脈で関わって行く。そうした成熟した社会を迎えるためには、無責任や無関心を打破する意識が必要不可欠だ。
地道な活動、創造力を育む取り組み、その手段の一つは間違いなくあらゆる本を読み続ける営みが有効であると信じている。
徹底した読書こそが道を切り開くと仮定したい。
情けは他人のためならず
利己的な社会だからこそ、行き着く先に究極的なエゴイズムこそが結果的に公益に還元されるような仕組みができたら面白い。
そのためには一人でも多く責任を主体的に取って行く覚悟ある「私」が連帯し、まずは「我々」として歩み始めなければならない。
向こう側との架け橋には、未だいくつもの段階が整備されぬままに残っているのである。
イデオロギーとか古くさいものはひとまず置いておいて、まずは緩やかな連帯を望んで行きたい。
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