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人のせい? 状況のせい?

何か失敗や過ちを犯すと、「あの人のせい」「環境のせい」、さらには逆ギレして「あんたのせいだ」と、自分以外の人や物や状況のせいにしたくなるのが、人間の悲しい性質のようです。

本当にそう思い込んでいる場合もあるでしょうし、プライドによって自分の過ちを認めたくないため、そのように責任転嫁てんかしてしまうこともあるでしょう。

「責任を嫁に転じる」と書きますが、転嫁の「嫁」は「よめ」ではなく、「他人にかぶせる」という意味だそうです。

しかし、聖書には、自分の過ちを実際に「嫁」のせいにした人が登場します。人類の始祖アダムです。(創世記2-3章)

神がアダムとエバを住まわせたエデンの園は非常に美しい最高の環境であり、木の実が豊富なので食べるのに苦労することはないし、気候がいいので服を着る必要さえありませんでした。

ただ一つ、神から命じられたのは、「園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」ということです。

いたって簡単な言いつけであるし、他にいくらでも食べるものがあるので、わざわざ禁じられた実を食べる必要もありません。

ところが、へびに誘惑されたエバは、神の言葉を無視して、その実を取って食べ、さらにそばにいたアダムに渡したところ、彼もまた食べてしまいました。

二人は自分たちがしたことを神から隠そうとしましたが、すべてをお見通しである神から、「食べるなと命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」と尋ねられます。

すると、アダムは自分の非を認めることなく、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」と、なんとも弱々しい言い訳をしています。

自分の目の前でへびがエバを誘惑しているのにそれを止めなかったし、エバから木の実を渡されても拒まなかったというのに、自分が食べたのをエバのせいにするばかりか、わざわざ「わたしと一緒にしてくださったあの女」とエバを呼ぶことで、暗に神にまで責任を押し付けているのです。

エバも、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」と答えており、やはり自分の責任を認めてはいません。

たしかにへびにだまされたという側面もあるのかもしれませんが、神よりもへびの言葉に従うという選択をしたのは彼女自身であることに変わりありません。

しかも、彼女がその実を食べたのは、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから」であり、神に背いてでも自分の欲を満たすためです。

エバはへびに誘惑されましたが、無理やり食べさせられたわけではなく、エバ自身が食べる選択をしました。

アダムも、エバから木の実を渡されただけで、無理やり食べさせられたわけではなく、食べたのはアダム自身の選択です。

そして、自分の選択の結果については、人のせいにせず、自分で責任を負わなければいけません。

一つ覚えていたいのは、神は私たちが弱い存在であることをご存知なので、完璧は期待せず、たとえ過ちを犯しても、それを認めて変わろうとするなら、あわれみを示してくださるということです。

主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。
主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。
主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。
(詩篇103:8,10,14)

しかし、この場合、アダムとエバはエデンの園に留まることが許されず、そこから追放されました。

もし二人が、自分の選択の結果を他人や神のせいにしようとせず、素直に過ちを認めていたなら、そこまで厳しい対処はなされなかったのかもしれません。

(そのような対処でさえも、神の愛の表れであり、それまでとは違った方法で神の近くに留まることを学べるよう、二人を送り出されたのではないかと思います。)

何であれ失敗や過ちを犯した時、それを自分に対しても神に対しても素直に認めて反省することで、同じ失敗を繰り返さず、成長していくことができますように。



創世記2章:エデンの園に置かれたアダムとエバ

創世記3章:へびの誘惑と神の対処


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