人生で最も暗く、重たい日々
大学を卒業したばかりの24歳で、輸入雑貨の事業に失敗し、家を家事で全焼し、それから精神科通いと向精神薬を飲み続けた。前からの夢であるミュージシャンを目指し30歳過ぎまで貧乏生活に耐えながら頑張ったが、今にして思うと向精神薬のせいで脳がうまく働かず、全くいい作品が作れなかった。まったく稼ぐことができなかった。人のために何か仕事をしたいと思い、NPOやまちづくりの仕事に取り組んだ。こちらも月給10万くらいで頑張ったが、何もできずに終わった。言い訳かもしれないが、世の中の人間はいくらいいことを言っても、所詮は自分のことしか考えておらず何をやっても無駄なのだとこの時悟った。本当に人のために役立つ仕事は何か? と考えていった時、音楽やまちづくりのような趣味的なことではなくて、お年寄りの世話や障がい者の世話など介護・福祉こそが、本当の意味で人の役に立つ仕事なのではないか? と考えた。自らも精神疾患で苦しんでおり、そんな自分でもできる仕事というものを徹底的に調べた。
職業について解説した本の中に「精神保健福祉士」という仕事があり、これならできるのでは?と思った。一応大学を出ているので、あと半年学校に行って受験資格を得て国家試験に通ればいい。とは言っても、本当にそんな仕事があるのか?不審に思った。そこで人の紹介で元精神科病院で働いていた人に会い、仕事について訊いたら、確かに仕事があり、競争率もそれほど激しくないこともわかった。それからこれこそがわたしの道だと思い、猛烈に勉強し、国家資格まで取った。障がい者の方にパソコンを教えていた経験はあったが、福祉の世界ではこういった民間営利事業やボランティアはまったく考慮されないので、福祉経験ゼロということで、職業訓練校と通信大学で介護や福祉について学び、国家試験に受かるまでは介護ヘルパーと障がい者の作業所で掛け持って働きながら、最後の夢と希望を持って資格取得をがんばった。仲の良い友達にはカリスマPSW(精神科ソーシャルワーカー)になるんだと言っていた。
国家資格は取得できたが、就職ができなかった。小さな所も含め20箇所以上受けたがすべて不採用、しかたがなく受験勉強中に働いていた障がい者の作業所の役員をしている人のコネで中川区の同じような障がい者の作業所に入ることになったが、最初から自分の病気がバレていたので、最後には利用者と同じ障がい者扱いで、気分が落ち込み身体が動かなくなっていたところに、パート採用だがTメンタルクリニックに採用された。これでやっと、本来の望みであった医療分野での精神保健福祉士になれると頭の中ではパズルが完成した感があったが、働き出して1ヶ月も立たないうちに辞めたくなった。
友達に相談するも、「せっかく目標とし苦労して入ったんだから、それはおかしいだろ」
と言われた。相談する同僚も相手もいなかった。発達障害や障害年金など、学校で習わなかった未知なる新しいものについても自分で勉強しなくてはならなかった。
この頃、わたしの病状は「双極性障害」と診断され、リチウム、レンドルミン、ロヒプノール、ベンザリン、ベゲタミンといった薬が処方されていた。今までは正直言って、適当に飲んでいたのだが、医療・福祉の勉強をはじめ、職場でも「クスリは大切」「きちんと飲もうね」「飲み忘れたら飲み忘れた分量を寝る前でもいいからまとめて飲もうね」と言われたため、障がい者の作業所に勤め始めた頃からきちんとした分量を一生懸命飲むようになった。だんだん感覚が鈍麻になり、一日中ボーッとして、喜びが失われ、食べ物の味も感じなくなり、映画を見ても本を読んでも内容が分からなくなっていった。家族が崩壊したので、仕事だけはきちんとしなければと思い、どんなにしんどくても苦しくても仕事だけは毎日行ったが、仕事が手に付かないとはまさにこのことだろう、仕事がまったく手につかず、いつも適当に誤魔化して、何をやっているのか分からないまま時間が過ぎることだけを祈っていた。仕事も手取りが12万〜14万円で遊ぶお金もなく、同年代の友達も誰もいなかった。
一番苦しかったのは、仕事以外のプライベートの時間が何をしたらいいか分からなくなったことだ、やりたいことが何も無い。「意欲」というものがまったく湧かないのだ。テレビで好きな番組を見ること以外何も興味がなくなっていった。そして夜がだんだん眠れなくなった。朝が来て仕事場に行くのが本当に嫌で、寝たら朝に近づくと思い、深夜番組を夜の3時までみて睡眠薬を一気に飲んで寝る毎日だった。そうすると一瞬で朝が来る。朝起きるのは、地獄に生まれるかのような苦しみだった。目覚ましを10回くらいセットしてなんとか起きれるといった感じで、毎朝がこの世の終わりだった。給料が少ないのでお金を節約するために電車でなく自転車で通勤していたが、どうやって職場まで行ったのか分からないくらい必死で通勤していた。職場の朝礼もいつも寝ていたので、いつも指摘されたが、もう一つ訪問入浴の副業もやってたので、Wワークがきついということでなんとか見逃されていた。最後の10年間は主治医は変わらなかったが、わたしがいくら「しんどい、しんどい」と言っても、仕事を2つ掛け持ちしていれば当たり前だよと言われるだけで、決してわたしの心の中の辛さや葛藤、問題を解決するという姿勢はまったく見られなかった。今までかかってきた精神科医は例外なく、わたしの心について一切考えることなく薬を出して終わり、きちんと話を聴いてくれる医師や心理士などただの一人も存在しなかった。
24時間365日常につらい、しんどい、意欲がない、喜びが感じられない、生きている心地がしない。これがわたしの病状であった。
福祉の職員や理事長は、「双極性障害」という病名に当てはめ、「躁の時がきたら元気になれていいね」ということくらいしか言わない、医療関係者は、病人と一線を画しているので、「近寄るな」「私とあなたとは違う」という態度で人間扱いされたことは無かった。
食事を作る元気がなく、いつも吉野家、すき家、松屋の黄金のトライアングル(死のトライアングル)をぐるぐる巡り、たまにストレス解消で2,980円飲み食べ放題の店に行ってはやけ食い、体重も10kg以上太った。
たまに買い物をしなくてはとスーパーに行くが、何を買ったらいいか分からず買い物かごを持ったまま2時間以上佇んでしまい泣いていた。もう末期症状だった。
昼間薬を飲むの眠たくなるので、夜睡眠薬と一緒に一気に飲んでいた。よく寝れるように、効き目が強くなるようにとビールで十数錠の薬を流し込んでいた。それでも1時間ほどで目が覚めてしまうので、明かりをつけて頓服のベゲタミンを追加で飲んだ。眠れない時は何回も繰り返した。もはや生きているのか死んでいるのかわからなかった。
世界が一瞬で滅んだらいいのに
そう思っていた。
そしたら2011年3月11日、勤務中にひどい揺れを感じたのでネットで見ると東北沖で震度8という今まで聞いたこともない数字があった。東日本大震災だった。その時、職員は患者さんほったらかしで自分だけ机の下に潜っていた。所詮こんなものかと思った。
東日本大震災で、職場を放棄し被災地へボランティアへ行く患者さんがいて、すごく羨ましかった。わたしも今のこの地獄のような職場を放棄して行きたかったが、それはわがままで敵前逃亡のような気がしてできなかった。
また震災直後、福島第一原発が爆発して放射線汚染が起こり、多くの人が避難し解決が困難になった。それを期に生き方を変える人が続出した。わたしも変えたかったが、もはやそのようなエネルギーも意欲もなかった。
人のために役に立とうと一生懸命もがき続けたが、家庭が壊れ、友人が寄り付かなくなった。
病気の症状を軽くしようと一生懸命薬を飲み続けたが、どんどん悪くなるばかりだった。
なぜ努力をすればするほど悪いほうにしか行かないのか?
それは世の中の構造、特に精神科の領域は、真・善・美と真逆にできているからだ。
そのことに気がつくには、この世界と足を洗い、薬をやめ、友達を総入れ替えする必要があり、あと5年かかった。
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