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三島由紀夫「金閣寺」〜柏木の理論〜

三島由紀夫「金閣寺」
作中で最も特徴的なキャラクターの柏木。彼の強烈な理論とは一体何だったのか?

どうもBeyondのイチニシチです。
今回は三島由紀夫「金閣寺」の解釈をしていきます。

ネットにある既存の解釈等は全く見ずに書いているので、ファンの方なら常識の解釈や、外してはいけないところを外していたりなどの恐れはありますので、その辺りはご容赦を!

柏木とは

柏木とは、本作の中で、主人公溝口が入った大学の友人です。内飜足という足に障害を抱えていて、それに関して色々な考えを持ち合わせています。

今回は、主人公溝口に初めて出会ったときの柏木の語りからわかる、柏木の考え方に関して考察していきます。

正直初めてここを読んだとき意味がわからず、何回か読み直して理解できたので、なかなかわかりにくい場面だと思っています。

しかし俺がそれ以来、安心して、「愛はありえない」と信ずるようになったことは君にもわかるだろう。
俺はかくて、世間の「愛」に対する迷蒙を一言のもとに定義することができる。それは仮象が実相に結びつこうとする迷蒙だと

柏木は溝口に対する語りをこう締め括っています。柏木が「愛はありえない」と信じていることはわかります。しかし、ここだけでは「仮象が実相に結びつこうとする迷蒙」と言っていることしかわからず、曖昧です。

仮象と実相

それでは柏木の言う「仮象」と「実相」とは一体何なのでしょうか?

隠れ蓑や風に似た欲望による結合は、俺にとっては夢でしかなく、俺は見ると同時に、隈なく見られていなければならぬ。俺の内飜足と、俺の女とは、そのとき世界の外に投げ出されている。内飜足も、女も、俺から同じ距離を保っている。実相はそちらにあり、欲望は仮象にすぎぬ。

ここでは、「仮象」は欲望に近いものであることはわかりますが、実相はその外側にあることくらいしかわかりません。「実相」とはもっと具体的には何なのでしょうか。

老いた寡婦の皺だらけの顔は、美しくもなく、神聖でもなかった。しかしその醜さと老いとは、何者をも夢みていない俺の内的な状態に、普段の確証を与えるかのようだった。どんな美女の顔も、些かの夢もなしに見るとき、この老婆の顔に変貌しない、と誰が云えよう。俺の内飜足と、この顔と、…そうだ、要するに実相を見ることが俺の肉体の昂奮を支えていた。

老婆とのエピソードの回想では、美しくもなく神聖でもない老婆の顔と柏木自身の内飜足こそが「実相」であり、それを見ることで昂奮していると言っています。「実相」が、柏木の場合は内飜足と言えることがわかります。それでも「実相」を一般化できているわけではないので、もう少し詳しく見てみましょう。

彼女がもし他人をでなくこの俺を愛しているのだとすれば、俺を他人から分つ個別的なものがなければならない。それこそは内飜足に他ならない。だから彼女は口に出さぬながら俺の内飜足を愛していることになり、そういう愛は俺の思考に於て不可能である。もし、俺の個別性が内飜足以外にあるとすれば、愛は可能かもしれない。だが、俺が内飜足以外に俺の個別性を、俺の存在理由を認めるならば、俺はそういうものを補足的に認めたことになり、次いで、相互補足的に他人の存在理由を認めたことになり、ひいては世界の中に包まれた自分を認めたことになるのだ。
内飜足が俺の生の、条件であり、理由であり、目的であり、理想であり、…生それ自身なのだから。存在しているというだけで、俺には十分すぎるのだから。

これらの発言を見ると内飜足とは柏木の存在そのものということができます。柏木にとって生の条件、理由、目的、理想、生自身ということができ、他人と区別するための個別性こそが内飜足です。「実相」が内飜足であったことを考えると、「実相」とは「存在そのもの」といえるのではないでしょうか。

また、「実相」を「存在そのもの」とすると、それに対して「仮象」は、「存在そのもの」ではないもの、すなわち「存在を不正確に捉えているもの」と言えます。

その実俺の欲望はだんだん烈しく募って来ていたが、欲望が彼女と俺を結ぶとは思われなかった。
隠れ蓑や風に似た欲望による結合は、俺にとっては夢でしかなく、俺は見ると同時に、隈なく見られていなければならぬ。俺の内飜足と、俺の女とは、そのとき世界の外に投げ出されている。内飜足も、女も、俺から同じ距離を保っている。実相はそちらにあり、欲望は仮象にすぎぬ。

このように書かれていることから、欲望は「存在を不正確に捉えて」いる「仮象」に属しているものであると読み取れます。隈なくみられているものが「実相」です。

柏木の状態

では、柏木はこれらの「実相」と「仮象」のなかでどう生きているのでしょうか。

しかし俺がそれ以来、安心して、「愛はありえない」と信ずるようになったことは、君にもわかるだろう。
ーやがて俺は、決して愛されないという俺の確信が、人間存在の根本的な様態だと知るようになった。

柏木は、決して愛されることがないと確信しています。愛とは仮象が実相に結びつこうとする迷蒙でしたから、他人によって仮象から実相に辿り着かれること、つまり、他人による不正確な自分の認識が正確な存在そのものへの認識に変わることはありえないと言っています。では自分自身ではどうでしょうか?

不安の皆無、足がかりの皆無、そこから俺の独創的な生き方がはじまった。
内飜足が俺の生の、条件であり、理由であり、目的であり、理想であり、…生それ自身なのだから。存在しているというだけで、俺には十分すぎるのだから。

これらの発言を見る限り、柏木は自分の存在そのものを捉えて受容しているように見えます。つまり、柏木は自分自身の実相に辿り着いているということができるでしょう。



今回は以上となります。柏木の理論の全貌が具体的に見えてきました。この「実相」と「仮象」というテーマは作品を通じてあったように思えるので、今後の解釈でも使っていきたいと思います。金閣寺でまだまだ考えたいことあるので、次回以降も書いていきます。
Beyondのイチニシチでした。またお会いしましょう。

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