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コンビニ人間からコンビニ動物へ

本の帯に書いてるのは『「普通」とは何か?を問う衝撃作』
でもそれではあまりにもテーマが陳腐?
作品の真髄はコンビニ人間からコンビニ動物への転換?

どうもイチニシチです。今日も楽しく番外編をやっていきます。
今回は本の解釈です。題材は村田沙耶香さん著の「コンビニ人間」です。
芥川賞をとっている作品なので、読んでいる方も多いのではないでしょうか。イチニシチも昨年仲間内の読書会で読みました。そこで議論になったことを書いていきます。

ネタバレを存分に含み、また、私見が大きく入った解釈なので、そこはご注意ください。

あらすじ

物語はコンビニバイト歴18年の恵子が主人公。
恵子は幼少期から、死んでる小鳥を見てお墓を建てるより食べたいと思ったり、男子の喧嘩をスコップで殴りつけて止めたりと、なかなか「普通」ではない行動をとっていました。

周りから指摘され、このままでは社会に出られないと、なんとか「治らなければ」と思いながら大きくなり、余計なことを口をしないことでうまく猫をかぶることには成功しているものの、変わらないまま大人になります。

そんな中、大学生になってから始めたコンビニのアルバイトが、「普通」ではない自分を世間からカモフラージュするための手段としてぴったりハマり、そのまま18年間続けることになります。

そんな中、婚活目的の新入りバイトの白羽がやってきます。明らかに態度が悪く、悪口を言いまくったり、ストーカーしたり、そもそも家賃滞納で追い出されかかっていてお金を家族から借り続けているのにうしろめたさを全く持たなかったりする、「普通」とは違うなかなかクズな男です。

そんな「普通」とはかけ離れた二人が、お互いの利害が一致して偽装結婚を試みる、といったようなのがだいたいのあらすじです。

「普通」とは何かがテーマ…なのか?

あらすじをさらっとみても、「普通」とはかけ離れた人間たちが物語を展開していることがわかります。実際に発言も現代日本社会の常識に照らし合わせれば異常なものが多いです。

センセーショナルな発言が多いため、本の帯に書いてある通り
「普通」とは何か?を問うというのがテーマであるように見えます。本のテーマは作者が一つに絞って書いているわけではないでしょうし、捉え方によっていくらでも変わります。

しかし、これだけだとありきたりすぎないか?と少し思います。実際こんなテーマの本は溢れていますし、本作品はセリフや表現がかなりライトで、芥川賞を取った小説ですが、「普通」とは何か?を問うだけでは浅すぎるんじゃないかと捉えることもできます。なので、他にも重要なテーマがないかどうかを考察してみました。

ちなみに、著者の村田さんの作品をイチニシチは他に読んだことありませんが、少し調べてみたところ、他の作品もなかなか「普通」ではないお話が多いそうで、そういった特徴は村田さんの作品の中では根底にあるのかもしれませんね。

衝撃的なクライマックス

本作品のクライマックスもなかなかセンセーショナルです。

コンビニバイトをやめ、白羽の指示で就活をする日々を送っていた恵子は、面接の合間でたまたまコンビニに立ち寄ったところ、コンビニに強烈に惹かれ、自分はコンビニのために存在していると自覚するという結末です。

私はふと、さっき出てきたコンビニの窓ガラスに映る自分の姿を眺めた。この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた。
私は生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出していた。ガラスの向こうから、私とよく似た明るい声が響くのが聞こえる。私の細胞全てが、ガラスの向こうで響く音楽に呼応して、皮膚の中で蠢いているのをはっきりと感じていた。

このように、自分の細胞全てがコンビニに引き寄せられているような、そんな感覚を恵子は獲得して、物語を幕を閉じます。

このクライマックス、最初読んだだけでは意味のわからなかった、ただの衝撃的な結末だと思った方も多いのではないでしょうか?

タイトルとクライマックス

さて、このクライマックスは何を意味していたのでしょうか?
それを解き明かすカギはタイトルである「コンビニ人間」に隠されています。

そのとき、私にコンビニの「声」が流れ込んできた。
コンビニの中の音の全てが、意味を持って震えていた。その振動が、私の細胞へ直接語りかけ、音楽のように響いているのだった。
「身体の中にコンビニの『声』が流れてきて、止まらないんです。私はこの声を聴くために生まれてきたんです。」

物語の最終版、恵子はコンビニの「声」が聞こえるようになります。

「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです。」
狂ってる。そんな生き物を、世界は許しませんよ。
「一緒には行けません。私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません」
「気持ちが悪い。お前なんか、人間じゃない」

自分をコンビニのために生きる「動物」だと言う恵子に対して、白羽は「人間」じゃないと否定します。つまりここで「動物」と「人間」の対比が成り立っているのです。本書のタイトルがコンビニ「人間」であるのも考えると、このクライマックスでなされている「人間」と「動物」の対比はとても重要なものに見えます。

では、本作品の中で「人間」と「動物」はそれぞれ何を意味しているのでしょうか?

「動物」とは?

まずはわかりやすい、クライマックスで出てきた動物を見ていきましょう。

「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです。」
「一緒には行けません。私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません」

恵子はこのように言い表しています。
「動物」とは「本能を裏切ることができないもの」としています。
コンビニの場合だったら、自分の存在がコンビニのためにあり、その為だけに生きていくような存在です。
つまりまとめれば「動物」とは「本能の意志を達成するためだけの存在」と言ってもいいでしょう。

「人間」とは?

それでは、こういった「動物」と対比された「人間」とはどのような存在なのでしょうか。

先述の通り、「動物」とは「本能の意志を達成するためだけの存在」です。
「人間」を考えるために、単純にその否定形を考えてみましょう。
すなわち「人間」とは「本能の意志を達成するための存在ではない」ということです。これはどういうことを意味しているのでしょうか?それを紐解くために、次の問いを考えてみます。

恵子にとって、今までコンビニはどういう存在であったのか?

クライマックスでは恵子にとってコンビニは存在目的そのものとなりますが、それ以前は恵子にとってのコンビニとはどのような存在だったのでしょうか?

それは、世間から自分をカモフラージュするための手段だったと言えるでしょう。幼少期からの常識から逸脱した行動が「治る」ことはなく、それでも生きづらくしないために、恵子はコンビニ店員を18年間も続けます。

しかし、恵子にとってコンビニ店員を続けるとは、世間から逸脱した自分をカモフラージュするための合理的な手段に過ぎず、それそのものに喜びを感じていたような描写も特にありません。

ここから、作中での「人間」とは「本能とは関係なく合理的判断を遂行する存在」といったようなニュアンスで使われているのではないか、と推測することができます。

「コンビニ人間」から「コンビニ動物」へ

さて、ここまでで、
「動物」とは「本能の意志を達成するためだけの存在」であり
「人間」とは「本能とは関係なく合理的判断を遂行する存在」である、ということがわかってきました。

これらに、「コンビニ」を挟むと次のようになります。
「コンビニ動物」とは「コンビニの意志を達成するためだけの存在」であり
「コンビニ人間」とは「コンビニの意志とは関係なく合理的判断を遂行する存在」であると言えます。
「コンビニの意志」という概念が少しわかりづらいので、「コンビニの意志」は、「コンビニを至上目的とすること」と言い換えましょう。すると、
「コンビニ動物」とは「コンビニを至上目的とする存在」であり
「コンビニ人間」とは「コンビニを至上目的とせず、手段として扱う存在」である
と言えます。

つまりこの物語は「コンビニ人間」から「コンビニ動物」への転換の物語なのです。

「人間」から「動物」への変化が意味するもの

ではこれにどういった意味があるのでしょうか。

自分が何のために栄養をとっているのかもわからなかった。咀嚼してドロドロになったご飯とシュウマイを私はいつまでも飲み込むことができなかった。

クライマックス直前、まだ状態としては「コンビニ人間」である恵子は、「手段」として合理的に用いていたコンビニを失って、生きる気力をなくしています。

私はふと、さっき出てきたコンビニの窓ガラスに映る自分の姿を眺めた。この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた。
私は生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出していた。ガラスの向こうから、私とよく似た明るい声が響くのが聞こえる。私の細胞全てが、ガラスの向こうで響く音楽に呼応して、皮膚の中で蠢いているのをはっきりと感じていた。

そこからコンビニ動物になった恵子は、かなり生き生きとしているように見えます。

つまり、合理的帰結の手段を追求した「人間」ではなく、存在目的そのものにしたがって生きる「動物」の方が幸福を感じているのです。

人が生きる上では、合理性よりも、生きる意味・存在目的があった方が幸福なのではないのか、というが隠しテーマとして読み取れるのではないでしょうか。


以上で今回の記事を終えます!私見入ってるので、コメント等お待ちしてます〜それではここまで長い文章を読んでいただいて本当にありがとうございました!Beyondのイチニシチでした。またお会いしましょう。


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