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【対談】三浦基×佐々木敦「演劇のリアリティとアクチュアリティ」(その4:最終回)〜『光のない。』(2014)CHITEN✕KAAT特設サイトより

ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と原発事故を受けて書いた長大なテキストを舞台化した『光のない。』は、2012年の初演の際、わずか3日間の上演にも関わらず観客からの圧倒的支持を得た伝説的作品です。2014年、この作品を再演するにあたって三浦自身が改めて『光のない。』について、早稲田大学文学学術院教授の佐々木敦氏と語った記事を全4回にわたってご紹介します。今回はその最終回です。
※《CHITEN✕KAAT》特設サイトの掲載ページはこちら

日時:2014年10月2日(木)14:45-16:15
会場:早稲田大学 小野記念講堂
主催:早稲田大学演劇博物館、早稲田大学演劇映像学連携研究拠点
舞台写真:松本久木

〈わたし〉と〈わたしたち〉と〈他の者たち〉


佐々木: そろそろ時間も後半になってきたのですが、もうひとつ、アクチュアリティということでうかがいたいことがあります。今日もお話にでてきた「わたしたち」ということについてなんです。観客は「わたし」として舞台を観ますよね、でもその「わたし」と「わたしたち」というのは一人の人間の中で常に両方あると思うんです。イェリネクは「わたしたち」という言葉をかなり強調していて、それを演出した三浦さんも「わたしたち」をどう発話するのか、つまり「わたし」が「わたしたち」をどうやって言うのかということをいろいろな形で問うた、問い直したのがこの上演だったと思うのですが、もう一方で「わたしたち」ということで、「わたし」がその中に紛れ込んで、「われわれは」といったとたんに、いきなり責任感が曖昧になったりとか、集団性を帯びて強くなったような気がするとか、ということが一方である。つまり「わたし」を「わたしたち」と言い換えることは、実はすごく難しく、それ自体が政治的な様相を強く帯びていると思うんですね。その中でどのように、観客である「わたし」と「わたしたち」に対してアプローチをしていくことがあり得るのかなと思うのですが。

三浦:それはとても大きなテーマだと思います。かつて太田省吾という演出家・劇作家が、「〈われ〉と〈われわれ〉」という演出論を書いていて、とても興味深いのですが、観客というのはどうしてひとりだと馬鹿なのに、客席に座って観客になると賢くなるんだろうと。これはある「わたし」が「わたしたち」になる瞬間なんです。群れを成すわけです。そのときに「わたし」の個的な問題というよりも、全体の雰囲気になってしまう。そういうことを常に演劇というのは突きつけられる、という意味だったと思うのです。イェリネクはその問い方をもう一枚剥いだ気がするんです。上手く説明できるか分からないんですが、「他の者たち」と彼女は言う。「他の者たち」がやってくるという、イメージで言うと自然災害だったり、津波については「海を送りつけた」とか「そこまでしなくてよかった」とか、意外と人情じゃんとか思うんですけど。「やがて他の者たちが」と言うわけです。そして最後に彼女が導き出した論法は、「放射線」とか「光」というものが「わたし」であるということ。「わたし」が「放射線」を持っている、「わたし」がその「放射能」を発してしまうというわけです。これは説得力があるわけです。つまり、東電の人であろうと、ほうれん草を買えない主婦であろうと、誰であろうと「わたしたち」が人類の先端に生かされていて、たまたまだけどこういった事故があったときに、「わたし」が「光」を発しているんじゃないだろうか、「わたし」が判断をしてきたんじゃないか。そして最後に彼女が突きつけてきたものは、政治性そのもので、観る前から言っちゃうけど、「あなた」あるいは「あなたたち」の「判決」をくれというわけです。ここに、ダイナミズムというか、いろいろ問うんだけど、おまえたち、黙ってないで判決をしてくれよ、判断しろというわけです。これはアジテーション演劇だし、演劇の本来もっていたオリジナルなものだと思うんです。飛躍しますが、2000年前のギリシアだとして、みなさんがそこにいるとして、私が演者だとして舞台上で何をするかっていうと、自分の子どもを殺す芝居をするわけですよね。タブーを見せつけるわけです。で、観客は、ああ、こういうことやったらまずい、と思うわけです。事件を目の当たりにする。イェリネクが言っているのはそういった歴史性、そこの部分にかならず立ち返る勇気を持っているし、彼女にとっては、誤解を恐れずに言うと東日本大震災も原発もひとつのモチーフです。ひとつのモチーフでしかない。もっともっと長大な辿らなきゃいけないもの、その氷山の一角であるということなんです。
佐々木:巨大で遠大なものを扱っているということですね。
三浦:『光のない。』という作品を原発賛成か反対かという二元論に陥らせると危ないと感じるのは、原作のそういう部分を感じ取ったからだと思います。「他の者たち」の力、それはもしからした科学かもしれないし……音波とか音とかも大きなテーマとしてあるんですよね。今回再演していて思うのは、第一バイオリンと第二バイオリンの関係性ですね。
佐々木:第一バイオリンと第二バイオリンというのがAとBの、まあ役名としてというと変ですがあるんですね。

三浦:まあ、オーケストラという社会があるとすると、その中での第一バイオリンと第二バイオリンとの関係性。つまりヒエラルキーがあるわけですね、クラシックの楽団の中に。そういったものもまたモチーフにされているし、世界の構造を紐解いてみせるようなかたち、その中で責任の所在が一番分かりにくくなった問題が、放射能の問題でしたし、原発の問題でしたね、ということのような気がします。「わたし」が「わたしたち」になる瞬間というのは実は個々人が沢山経験しているわけです。テレビの前でも新聞を読んでも経験している、つまりメディアを目の前にしたときに、人はそれしか経験していない。そういうことのもうひとつ外側から「他の者たち」という言い方をしちゃったというのはなかなか面白いし、今回の演出でもそこには多分十分に応えられていないと思う。台詞は滑っていると思う。チェックしてほしいんですけど、多分適当にごまかして言ってると思う。分からないんですよね「他の者たち」って。ロボットじゃだめだな、宇宙人レベルじゃないと、鹿とかが出て来て日本語しゃべってくれないと。
佐々木:他の者と言うなら、本当に他の者じゃないといけないと言うことですよね。
三浦:そうそう。だからそこは僕もわからないし、イェリネクもわからない中の手探りで書いているんだろうなと思うんだけど、ちゃんとは答えられない、大きいテーマだったと思います。

質疑応答(1)ドラマトゥルクを愛せ


コラージュ演劇のつくり方

佐々木:せっかくこれだけ沢山の人が集まってきてくれたんで、質問を受けようと思うんですけれども。意見でもいいいんですが。

観客1:作品の作り方についてもう少しお伺いしたいです。今回の『光のない。』に関しては、どのようにしたらその言葉を発していけるのか、ということを試行錯誤していく、とお話されていましたが、他のチェーホフですとか、太田省吾、アルトーなどのコラージュ作品の場合は、どうしたら言えるのかということはまた別の問題として立ち上がってくると思うんですけれども、そういう作品については作り方みたいなところから違うものなんでしょうか。
三浦:チェーホフの場合は四大戯曲全て演出しているんですが、装置というか舞台美術から考えます。たとえば『ワーニャ伯父さん』だったらピアノから降りないとか、「環境」と呼んでいるんだけど、舞台美術と呼ぶより舞台装置と言う方が好きなんですが、俳優がどういう風にその装置の中で機能していけるのか、そうしたことを気にするんです。例えば、テーブルにのっかったまま、この人は妄想してしゃべり続けるとか、そういう設定。そうすると、モノローグがドンとしてくる。ダイアローグよりも、かいつまんで固めてモノローグにしちゃう、というような感じですね。チェーホフをライフワークにして長いので、最近変ってきたりもしていますが、基本的には妄想のありかをどういう風につくるかということから、語りということを意識してつくりました。
アルトーや太田省吾の作品のように、評論などのコラージュの場合は、あまり上手くいかないです。難しい。頭で考えてしまうんです。台詞があって、このワンシーンやって、ここで本人が書いた批評的な文章かぶせよう……みたいなことは、構成を責任をもってやってくれる人がいると上手くいくと思います。でも自分たちだけで集団創作していると、どうしてもそこの偏差値が低くなっちゃう。俯瞰できないからかな、それは上手くいかないんで、方法とかはないんです。
ただ、ひとつ、『CHITENの近現代語』という、隠れた名作と呼んでいるんですが、大日本帝国憲法とか、玉音放送とか、朝吹真理子さんの短編からの引用とか、ものすごい細かい単位で構成してるものがあって、これはすごくいい。桜井圭介さんがアドバイスしてくれたんです。ドラマトゥルクとして、初期の初期の段階で、こんな感じというのを言ってくれて、最初はほんとに?と思いながら言われた通りにやっていったんですが、そういった限定、ひとりの人の頭で考えた、物語ではないんですが、囲み方があると、演出や俳優の作業というのは、彼の嘘かもしれないけど、その思いをなんとかつなげてあげようという感じで、上手くいきますね。
コラージュ演劇をやりたい場合は、かならずドラマトゥルクをつけたほうがいいです。その人が頭が悪くてすごいロマンティストだったとして、その人を愛せばいいだけです。それが現場の仕事。とにかく、そいつが、どれだけ病んでてどれだけロマンチストかということを、なんとかみんなで愛したらうまくいく。
佐々木:作者じゃなくて、コラージュする人を愛せってことなんですね。
三浦:そう。で、作家は死んでいるほうがいい、理想は。著作権がないほうがいい、とにかく。これは本当です。これは本当のアドバイス。刺激的な作品を作ってやろうというときは、とにかく著作が切れているもの、作家が死んでいるもの。絶対文句言われないから。
佐々木:だれもがイェリネクみたいな人とは限らないですからね。

質疑応答(2)群舞とマスゲーム


死の表象と演劇

観客2:三浦さんが書かれていることや、最近の作品をみて、土方巽さんの論考について考えまして、「群舞は可能か」ということについてなんですが。三浦さんはそれを演劇で実践しているのかなと思って見させていただいているんですけれども、演劇は基本的に群舞であると思うのですが、それを三浦さんがどう問われて、そして達成していると評価しているのか、お聞きしたいです。
三浦:今彼が言っていることなんですが、土方巽という舞踏家がいて、もちろん伝説の舞踏家ですね。ソロはみなさん映像で見たことあるかもしれませんが、「突ったったまま死んでる」というような、もう、泣くよ。ビデオで観ても、ああ、すげえというか、ああ、と思いますよ。で、その後カンパニーを組むわけですよね。そうすると、見るに耐えないんです。これアウトだよねと。かたや、パリ・オペラ座でローラン・プティなんかの振付を見てご覧なさいよ、素晴らしいですよ、群舞も。やはり西洋の上へ向うバレエと、下へ向う舞踏というのは違うなと。それはシステムの作り方の問題なんですよね。バレエは譜面化されているし規則化されていて、土方は舞踏譜というかたちでやろうとしたんだけど、一般的じゃないわけですよ。そうすると徒党を組もうというときに考えないダンサーが集まると、それはやはり無理があるんですよ。指導する側もいらつくから、だからそこにはある程度の完成度しか求めなかったんだなと、もう少し頑張ってほしかったなというのが、僕の土方の見方です。
いま彼が指摘したのは、群舞に準ずるような形、今日の話に引きつけていうと、「コロス」ですね。合唱とか、同時に人は同じ事ができるのかとか。例えば北朝鮮のパレード、誤解を恐れずにいうと素晴らしいわけですよ。あの膝の上がり方。いわゆるマスゲームですね。舞台というのはそういう歴史がある。固有名詞がついてないものが圧倒的な力を示す、それで高揚するということはあるんですね。パリ・オペラ座では、ダンサーが3歳から踊り始めて、しかも難関をくぐってきているわけだから、当然技術的に鍛えられて、一生同じことをやっているわけですから、何でもできるわけです。そしてそこに感動してしまう自分もいる。だから群舞とか合唱とか、集団の動きみたいなものの完成度はどこまでいってらっしゃいますか、という鋭い質問なんですね。それはあまりうまく行ってないからPiriPiriの力を借りるわけです。そのほうが素直だろうなということで。今までわだかまっていたものが、ざまあみろというか。ぶんぶん腕が動いてもたかが知れているわけですけど、そこに袖をちょっと直すようなナチュラリズムを入れてみるんです、そこにビン!ときたらお客さん騙されるかなとか、もうちょっと手を高くあげろ、とか。多分群舞とか、マスゲームとかいうものは、人を人として見ていなくて、死んだものの塊として見ているわけですよね。死の表象されたものだと思うんですね。それが外圧によってそういうことができるって事が、棚ぼただけど上手く行ったと思います。
あとは、いまの質問に答えると、合唱隊をぜひご覧ください。12名なんですけど、この人たちは「蛇居拳算」と呼ばれている三輪さんが作ったアルゴリズムのシステムを使って歌っていて、非常にファジーに出来上がっているんですけど、なんだか群れというか群舞感を出しているので、それはひとつの回答なんだと思うんですよね。現代作曲家が「コロス」というものをどのように支配するか。そこには偶発性が伴っていて、最初に三浦さん見てくださいといって数字の表を見せられたわけです。ここから始めると、必ず何十回目には初期値に戻りますと、嬉しそうに言われるんですけど、これ劇で使うのは一部分ですよねという話をしたわけです。だけど、そういった観念があるわけです。土方の失敗は踏めないと。踏まない。難しい問題だと思うね。
佐々木:三輪眞弘さんは本当に現代音楽と呼ばれる分野で、間違いなく最も先鋭的な活動をしている作曲家だと思います。その彼と地点とのタッグというのもぜひ注目していただきたいと思います。


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