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「わが町 岡山」で演劇すること

  今年8月に岡山で企画している公演、地域の若手演劇人とつくる『かもめ』に向けてのオンライン稽古が始まった。2019年から、地元で演劇活動をする若手を育成する目的で毎年夏休みに公演を企画している。
今回、演出を務める伊藤圭祐くんは、2年前に岡山大学演劇部と共同で創作した『水曜日のイソップ』でも演出を担当し、今春から出身地の島根で小学校の教員をしている。出演者もやはり、今年就職した参加3回目のメンバーを中心に、現役の大学生、助っ人のベテランが集まっている。対面での稽古が始まるのは7月末。大阪からコーポリアルマイムを専門とするフィジカルシアターユニットtarinainanikaの巣山賢太郎さんを招いての勉強会、創作指導を経て、上之町會舘での公演に臨む。岡山にも緊急事態宣言が出され、まだまだ先が見えない状況だけれど、もし計画通りに公演ができなかったとしても、取り組んできたことは無駄にはならない。新型コロナウイルスの流行が収束した時に一歩でも前に進めるように、楽しくやろうと話している。

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 東京在住のわたしが出身地の岡山市で演劇活動をするために演劇ユニットOTOを立ち上げたのは2014年。それ以来、ほぼ毎年のようにワークショップや公演の企画を続けてきた。第七劇場で活動していた時は、三重と岡山、そして公演のある地方へと車や夜行バスで毎週のように移動することもあった。今は、子育てしながらの岡山との二拠点。
「岡山でも演劇活動をしています」と東京で言うと、「演劇の空白地帯ですね」と言われることがある。外には発信されていないけれど、実は他県と比較しても演劇人口は多いのではないかと思っている。昨今は、地域に人材を輩出している岡山大学演劇部の活動も活発だ。

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「なぜ岡山なのか?」
岡山に住んでいた子ども時代、ここには無いものばかりに興味があった。東京の大学で演劇を始めた頃、地元で活動するなんて全く想像がつかなかった。卒業後に劇団山の手事情社の研修生になったが、修了公演の一か月前に父が肝臓がんで余命数ヶ月であることが分かった。家族とも相談し、公演には予定通り参加したが、ストレスで体調を崩し、本当は舞台に立っているのもやっとだった。公演を終えて岡山に戻り、父が入院していたホスピスに付き添いで一か月ほど寝泊りした。父は以前に脳出血で倒れた後遺症で、身体が不自由になり、会話が困難だった。兵庫出身で京都や大阪で学生時代を過ごした後、岡山に移住して学習塾を営んでいた父。同業者で会をつくり、学校と連携し、教育機関として認知されるための活動にも取り組んでいた。わたしは病院の窓から町の風景を眺めながら、父は、なぜこの町を選んだのだろう、何十年もここで暮らし、仕事をしてきてどうだったのだろうか、元気なうちにいろいろ聞いておけばよかったと思った。父が亡くなる前後、岡山で過ごした半年は、改めて自分が生まれ育った町に向き合う機会になった。それはわたしにとって父親との対話でもあるのかもしれない。

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 岡山で演劇をしようと考え始めたのは、劇団員になる前、市内の元日銀の建物をリノベーションしたルネスホールで第七劇場の公演を観てから。東京のような環境が無いからできないと思っていたけれど、それは思い込みに過ぎず、身体と柔軟な心があればどこでも演劇ができることに気づかされた。4年前に娘が生まれ、実家の母や妹に手伝ってもらえる環境があることで、わたしにとって東京よりも演劇がしやすい場所になった。

ワイルダーの戯曲『わが町』を思い出す。舞台は、登場人物の生死や結婚以外には、何も特別なことが起こらない町。エミリーは死んで「よそ者」になったことで、それまで当たり前だった町の日常の中にこそ豊さがあったことに気づく。岡山を離れて「よそ者」になったわたしは、ここにしか無いものがよく見えるようになった。演劇活動を通じて、かつての「わが町」を見つめ直す作業は続いていく。

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OTO(オーティーオー)

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米谷よう子の記事はこちらから。
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