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舞台俳優という職業は必要なのか

20代、東京のホテルでバイトをしていた時、「演劇なんて趣味でやってんだろ?」と上司に言われたことがあった

今思えば、ヨーロッパ、アジア、日本各地に年中飛んでまわり、何百人もの前で臆面もせず動いてしゃべりまわるような趣味は、趣味としてはすごいんじゃないかと思うけれど、
たとえば「いいえ、演劇は仕事としてやっています」
と言い返すのがよかったのだろうか
でも仕事と趣味の区別も曖昧だった当時のぼくは、漫画かテレビにしか存在しないと思っていたその上司の決まり文句に、「ああ、これがその瞬間か」と妙にワクワクしてしまったのを覚えている

趣味と仕事の境界線は人によってまちまちで、
趣味でもいいじゃないか、という言い分もあれば、趣味じゃないよという言い分もあると思う
それでも、お金を稼ぐということは趣味よりも上位にあり、まともに給料も出ないような活動は仕事ではないという認識は、ほぼほぼ一般的なのではないだろうか
給料の有無というよりは、その活動が利益を生むのか生まないか、だろうか
なので、演劇は仕事として成り立つのかという疑問も、利益という面だけ見れば成り立っているとは言い難いけれど、社会的な貢献という面で見れば実績を出している演劇分野もあるし、公共性を果たしつつ、”豊かな”人生を過ごす手伝いができる可能性を演劇は多いにもっている

それでも演劇をとりまく価値観はとても曖昧だ
職業はなんですかと聞かれたら、
今でこそ見栄も気負いもなく、役者やってますと応えるけれど、むかしは妙にかまえていたとは思う
“世間の認知度は低く、収入は安定せず、たまに怪しい宗教だと思われ、いつまでも夢を追いかけてがんばっている人”、そういうイメージと一緒に並走しながら創作活動をするというのは、そういったまわりの声(あるいは自意識)に蓋をして鈍感でいるか、オラオラとがんばるタフネスがないと、どうやらなかなかやっていられない
なので、知り合いの舞台俳優たちはだいたいタフで鈍感(いい意味で)な人たちばかりになっている(気がする)
確かなことは、ぼくがやっている舞台俳優という職業は、その存在意義も、収入も、価値も、とても曖昧で不安定だということだ

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基本的に舞台俳優は貧乏だ
いや、全国的に舞台俳優は貧乏だ(個人の感想です)
でも貧乏だから不幸ということにはならない
金持ちでも不幸を嘆いている人を何人か知っているし、大金持ちほど大変そうなので、その苦労ははかり知れない
だから貧乏だろうと金持ちだろうと、幸福かどうかはまた別の尺度があるということになる
ぼくは性格が基本的にポジティブで嫌なことも忘れやすく、俳優としては無名で貧乏だけど、日々とくに過不足なく充実して過ごしている
ひとまずそういう例は脇に置いておくとして、
舞台俳優という職業種の自己肯定感はおそらくとても低い(それゆえに自己愛がとても強いとも言える)
世間がなんと言おうとこれが私の生き方です、みたいな勢いというか、気迫というか、根拠のない自信とかがないと、簡単に心がパキポキ折れて辞めていくか、鬱になるか、夢破れてみたいな状況と状態になってしまうので、あらゆる手段をもって自己を肯定していけるような環境づくりはとても大事なことじゃないかと思う

(演劇に限らず、何か突出した才能や存在が出るとコツコツと頭を叩かれて周りと同じ高さにそろえられていく現象は、良くも悪くも日本列島がもっている呪いの一つだとして、まず夢[目標と言いかえてもいい]を持たないと各々の才能の評価もしづらいのに、その夢ですら同じ大きさにそろえようとするこの正体不明の圧力はいったいなんなのだろうという話はまた別の話)

舞台俳優という仕事は、精神面でも収入面でもその存在を保証するような、職業における安心安全な枠組みをほとんど持たないところからスタートする(個人の見解です)
そもそもの存在意義と、職業としての枠が(少なくとも日本という国では)いまいち定まりきらない舞台俳優にとって、自分の活動は誰かのために必要とされている、あるいは社会の中の歯車として十全に機能しているという実感はなかなか感じづらいのが現状だ(個人の感想です)

じゃあぼくはそんなものをなぜ続けているのか
そもそもどうしてやりたくなったのか

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やりたくなった理由は簡単で、大学受験中に赤本を開いて勉強していたら、自分が舞台上で万雷の拍手を受けている画がたびたび浮かんできて、勉強が手につかなくなったので、舞台をやることにした、ただそれだけになる

続けている理由はいろいろあり、
まず一つ目は、「自分を求めるお客さんがいるから」
これは不安定な自己肯定感を補完してくれるものとして何度も助けられている
自分が存在していいのかわからなくなったとき、これからも「君を観たい」というひと言はそれだけで向こう1000年は生きられるくらいの力を与えてくれることがある
誰かに必要とされるということは、生きるためには時として衣食住よりも不可欠な場合がある
それをぼくは観客の、名前も知らないおじいさんから教えてもらった

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二つ目は、「演劇は教育と相性がとてもいい」ということ
建前としては、
集団創作においてさまざまな役割を演じることで、多種多様な他者の考え方や言い方に触れ、あらゆる人生のかたちをシミュレーションしつつ、自分の生き方の選択肢を増やすこと、あるいは他者の生き方を知る機会を得ることにある
そして本音を言えば、
ぼくのように思い込みが激しく多動症で落ち着きがない、頭のネジが外れていると言われるような子どもでも、「君が観たい」と言って自分を必要としてくれる人と出会う機会はいつか必ずどこかであるから、その機会をつかまえられるような知恵と能力を身につけておきなさい、ということにある

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三つ目は、「いろいろな場所を旅して、知らない場所やまだ会ったことのない人たちと出会えるから」
舞台でツアーに出ると、ぼくはだいたい近所の山か丘に登ってその街を見下ろしている
上演する劇場や、観光名所、大通り、駅、海、山、空などをひと通り見て、なるほどこの地形だからこういう街になったんだと、大昔から今に至るその土地の人や物の流通を確かめながらふもとに戻り、適当に入ったカフェや土産屋で店員と世間話をしてから楽屋入りし、共演者たちとダラダラしゃべりながら準備をして本番を迎える、ということをだいたいいつも繰り返している

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演劇が趣味か仕事かは、それをやる人それぞれの取り組む姿勢によるとして、
求められた場所に行き、そこで自分の才能と技術を使って舞台に立ち、あるいはワークショップを通して地元の人たちとの交感を果たしつつ、お土産を買ったり飲み食いしたりしたら、また来ますねと言って家に帰ってくるという、
この活動のサイクルはなかなかに楽しい

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好きなことを楽しんでやっているのだから、いいことじゃないかと思うが、それだけだと職業としての専門性や責任を疑われるので、求められるレベルに見合うような特別な技術であったり専門的な知識などはやっぱり必要になる

では、舞台俳優という職業の専門性とはなんだろうか
それは”演じる技術を持っている”ということが、その専門性を示す一つであることにひとまず異論はないかと思われる

一方で、芸術一般によく言われるような、”自分を表現する”という言い方は、俳優という人種を表すにはあまり正確ではないと思っている
表現という言葉の意味があまりに広いせいもあるけれど、自分を表現するのはなにも芸術に限られたことではなく、勉強や、料理や、会社でのプレゼンだってある意味立派な自己表現になる
何をしても表現になるとも言えるし、自分を表現することは自由だと言っても、今の日本国内ならいきなり投獄されるようなことはない(ぼくの知る限りだけど)

買ってきた便器にサインすればアート作品として美術館に展示されるような時代なので、街角にぼーと突っ立っているだけで、彼は滲みでる孤独を表現していると評価されることもあるかもしれない
それくらい表現をするということは自由なもの、という認識はある程度一般的になっているのではないだろうか(個人の認識です)

でも、制限のない広大な自由の前に立つと、たいていの人は立ち止まって何もできなくなることが多いので、自由な表現と言っても、ある程度の制限はあったほうが自由にふるまうことに対して人は寛容的になりやすい
そして、自分を表現するというとき、あらゆる制限やしがらみから解放された”本当の自分”を見つけるという目的をもった場合、それはとても聞こえが良く魅力的なテーマだけれど、
本当の自分を表現すればいいと宣言する、その”本当の自分”というものが、そもそも無知で不分別でゴリゴリに偏ったクズ人間ではないとはまったく言えないし、それは誰にもわからない
そして、そのことを本人が自分で証明して見せることも、他人が指摘することもとても困難だ

(「本当のあなた」「なりたい自分」「ありのまま」などの、主にアメリカ発信のアニメや映画に散見するこの種のセリフを観ると、ぼくはいつももやもやした気分になって、アメリカってたいへんな国なんだなと思う一方で、でも肉料理が美味しそうな国だからいつか行ってみたいという話はまた別の話)

なので、自由には制限が必要だし、表現には分別が欠かせない
そういった人間の表現領域における制限や分別を、物語や非物語などの形式を借りつつ、訓練された(あるいは意図を持った)身体を使って舞台上で体現するのが専門の舞台俳優であり、その体現するための技術を演技と呼ぶ
そしてそれが舞台俳優の持つ特殊技能ということになる
(個人の経験です)

では、その技術を使ってぼくは何がしたいのだろうか
そこまで身体にこだわって、演劇にしがみつくのはなぜなのだろうか

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シンプルに言えば、「人と人が向き合うこと」を表現したいからだ
やはり演劇の魅力は、舞台と客席の距離がとても近く、ダイレクトにお互いの交流ができることにある
それは大きな劇場に限られたことではなく、カフェスペースや学校の教室や野外など、創る側と観る側が同じ場所で同じ時間を過ごすことが演劇の大きな特徴の一つかと思われる

ただ、大勢の人間が一緒に関わると、自分の好きな人やかわいがってくれる人だけでなく、嫌いな人や苦手な人と話したり、めんどくさいこともがんばらなきゃいけない時がある
自分とは生き方も考え方も違う人間と、ある目的のために一緒に過ごすにはどうしたらいいか
どうすれば信頼できる関係を築くことができるのか
自分はこのまま生きてていいのかいけないのか
演劇はそれらの問題に直接答えることはできないが、そういった問いを考えるための選択肢と時間と場所をつくることはできる

演劇が持つさまざまな知恵や方法論は、人と人がどう向き合ってきたかを考えてきた歴史の蓄積であり、その堆積は今でも脈々と続いている
その知の大系の中にぼくは関わっていたいし、それを体現する人間として、できる限り多くの人がその場所を利用できるようにつとめたい
それが舞台俳優としてのぼくのやりたいことになる

コロナ禍によってしばらくの間、人と距離をとることが当たり前になっているけれど、そのおかげか立ち止まっていろいろと考えることもできた
あらためて、舞台俳優という職業は必要なのだろうか
自分は世の中の役に立っているのだろうか
時代の流れに抗おうとしているのだろうか
懐古的な時間に浸っていたいのだろうか

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とにかく自分は何かにしがみついているのは確かだ
それまでの自分が必死でかいてきた汗と涙の積み重ねを否定するのはむずかしいので、よほど大きな事件でも起きない限り、おそらく20〜30年後もぼくはだいたい似たようなことを言っているのだろう
でも、その時もぼくはまだ舞台俳優として生き残っているのだろうか
「それでも、地球はまわっている」と言ったガリレオのように、「それでも、人は人と向き合う」と言うつもりなのだろうか
「それでも、人はスマホと向き合う」の方が、未来をあらわす言葉としてはまあまあ真実味がある気はする

リモートでの関係づくり、舞台の映像配信などは、いまだに主要なやり方ではないけれど、もし世の中がリモート主体に移りきった時、人と直接会わなくても、経済を含めた社会活動が滞りなくまわるようになった時、わたしたちは誰かに会うためにわざわざ玄関を開けて外に出かけるだろうか?
おそらく会わなくても済むなら、会わないと思う
“便利だから”、”早いから”、”まわりもそうしているから”、さまざまな理由を後からつくって、そういう時代の変化にいつのまにか順応していくのだと思う
この先、人と触れ合うということへの期待は徐々になくなっていくかもしれない
今までの身体感覚は薄れていき、新しい身体観が生まれるのかもしれない
それでも舞台の良さは直接人と人が顔を合わせることだと信じて、情熱と使命感の汗をぼくはかいていられるのだろうか
そこに舞台俳優の存在できる隙間はあるのだろうか

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コロナ禍もいつかは収束する
(永遠に蔓延し続ける病気が存在したことはまだない)
でもその目に見えないウイルスのおかげで、目に見えない信頼までもがその距離をとっているように思える
「信頼」という言葉にまつわる姿勢には「自由」と同じく限度があり、その限界をそのつど決めているのはまぎれもなくわたしたち自身の態度なのだろう
際限なく他人を信じる必要はないけれど、その限界の枠は、いつでも、どんな形にも広げられるものとして、どんな相手でも受け入れられるものとして、準備だけはしておきたい

何ができるかできないかだけで考えると、どうしても悲観的な迷いがついてまわるので、この場合は、何をしたいかについて考えたい
職業として演劇を選んでいるのは、大き過ぎないコミュニティの中での、お互いの目と手が届く活動がしやすいからだ
そしてぼくにはそのための、才能と技術を磨く時間と機会が与えられている
たしかにできることは少ないけれど、この目と手の届く限りは、自分がこの世に居ていいのかわからずに迷っている人がいたら、ぼくは「あなたを観たい」と言って声をかけたい
生きろとは言わない
ただ、これからも「あなたが観たい」と言えるように、最低限それができるようにつとめたいと思う

舞台俳優という職業は必要なのか
けっきょく個人的な経験談ばかり並べてしまって、職業としての舞台俳優を説明するものとしてはかなり偏った、視野の狭い文章になっているのは否めない
せめてぼくが生きている間は俳優として必要とされていたいけれど、近い未来、もし人と人が向き合わないことが当たり前になった時、役者はその時代のリアリティを体現するという価値観がまだその時点で生きていれば、人と向き合うことをまったく知らない舞台俳優がそこに存在するということになる
それがどんな顔で、どんなしゃべり方をするかはわからないけれど、それもまた人間を表現する一つのかたちなのだろう


小菅紘史

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小菅紘史の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m1775a83400f9


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