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一人では生まれないもの/ロールプレイング

(221001)干城
9月末は、お彼岸で地元に戻っていたり、京都に行っていたり(参加した映画が関西クィア映画祭でコンペティション上映された)、それから豊岡にちらっと行って、ついでに天橋立に行ったり。(来週は松本に行く。)
移動って面ではバタバタとした感じだったけど、久しぶりにデスクワークから離れて、そういう意味ではのんびりと過ごせたというか、かなりリフレッシュできた気がする。
旅して歩くことだったり、画面を見ている時間を減らすことだったり、思考や決断をゆるくして良いと自分に許可できるようなのは、とても効くんだなと知った。


言葉の扱いとわたし/わたしと言葉との旅

そんなわけで、2週間ぐらい経ってしまったけれど、先月のまやの質問に答えようと思う。
僕の書いた、「書いたり言ったり、言葉にできるけど実は全然思ってもなかった、みたいなことが自分にあることに、ときどき気づくことがあって。」について、もう少し具体的に言うとどういうこと? って問いなんだけど。
これは、その場のノリで言っちゃったこととか酔っ払って言っちゃったこととかってあると思うのだけど、例えばそんなことと思ってもらって良いと思う。

そういうのって、つい本音が出たみたいなふうに言われることあると思うんだけど、僕はそれ、特別本音だとも思ってなくて。
なんか、文章を書いてて(キーボード打ってて)、キーボードって、多少リズムで打てちゃうところあるから、考えるよりノリが先行するというか、
スラスラと書いていって、途中で読み返すと、あれ、こんなこと言いたかったっけ? みたいな。
脱線してるというより、斜行してるというか。
書いてるうちに、どこかで見たり聞いたりしていた考えとか言葉とかが勝手に入ってきていて、
これほんとに僕が考えていた(書きたかった、言いたかった)ことだったのかな、みたいな。
画面に向かったときにそもそも想定していたようなことと違ったりもするんだよね。
確かに自分はこうかもしれないって、新たな発見として受け取ることもあって、そういうときは面白いんだけど、
いやいやこれはもうただのノリでしょ、誰かがどこかで言っていたことを書いてるだけでしょ、みたいなこともある。

あと、言い合いになったときとかで、相手に対抗するために、自分としてはそれほど支持していないことを言っちゃったりとかね。
恋愛のときとかでも、こんなこと思ってないけど言っちゃったみたいな、傷つけたくて言ったわけじゃないとか。
格好つけるために、優位に立つために、認められたいがために、とか。
あとは、ほんとに訳わかんなくなって、とか。
本当でも確かでもないことを、人は言ったり書いたり、行動しちゃったりするよね。

そうやって流れのなかでそんなことが起きることもあれば、こんな割と落ち着いて書いているようなときでも、言葉をつなぐために言葉にしているみたいなときもある。
たぶん僕が、言葉や自分を疑ってかかっているのは、そんなワケなんだろうな。
言葉にすることで、自分をか何をかあまり分からないけど、規定していくようなところがあって、
何というかそこに対して、気をつけているところがあるし、
僕は、自分で自分の言葉にしたことに、信頼度というかの濃淡をつけているようなところがある。
(たぶんこのあたりが、僕の、不確かでとか、ぐだぐだでとかに繋がっているように思う。)
そんな感じで、ノリで喋るような場面とか、ちゃんと喋らないといけない場面、難しく喋って良いようなところや、簡便に喋るべきときなど、
はっきりとは言えないけれど、たぶんそれなりに使い分けてるんだろうな。
(問題が起きるときとかって、あるいは人と合う合わないとかって、このあたりの調整の具合いが関係してきたりもするんだろうなと思った。)

と、書きながら、そりゃまあリフレッシュするわと思った。笑
好きだけど、ちゃんとストレスは溜まるんだよな。書いたり考えたりすることも。演技も演劇も。


(221012)まや
ご無沙汰してしまいました。
ガレキの太鼓「『没入すると怖いよね、恋愛』の略で没愛」が終わりまして。
始まる前から息切れ気味だったのが、途中で演出家が体調不良になってしまったりで、息切れしたまま公演初日を迎えて。
でも、お客さんが笑ってくれる・楽しんでくれるっていうことには本当にパワーをもらえるね。
疲れてはいるんだけど、疲れが吹っ飛んで本番期間中ずっと元気でいられた。

「好きだけど、ちゃんとストレスが溜まる」ってまさにそうで、
むしろ、こんなにストレス溜まるのになんで好きなんだろうって思う。
そのくらい演劇は大変さと楽しさどっちも強い。

そうそう、だからリフレッシュまで含めて、仕事だったり生活なんだなあと最近よく思う。
瞬間的に無理しなきゃやり遂げられないことの連続だったりもするけど、
ここぞというときにちょっと無理できる余力とか、折れそうになる五歩くらい前で一旦妥協点を見つけることとかとても大事だなと。
折れちゃうのが一番良くない。と、少し大人になった気持ち。

競泳水着、アマヤドリ、ガレキの太鼓と続いた出演ラッシュが落ち着いて、
またしばらくは人生経験積むターンに入って、内心ホッとした部分もある。
忙しい半年間だった。


一人と一匹とコミュニケーションと

実はね、我が家に新しい子犬を迎えまして。
その犬のトレーニングと、
あと乳幼児の睡眠コンサルタントの資格を取得しようと思っていて。
そんな中でもちろん娘との時間が中心で、
全く違う世界観の日々が始まってある意味リフレッシュできてる。
脳(心?)って新鮮な刺激を求めているんだろうね。がらっと変わると楽しい。

犬のトレーニング(しつけ)と幼い子供との関わり方を比べると、当たり前だけど全く違ってそれもまたおもしろく。
犬は基本的にご褒美(おやつとか褒め言葉とか遊び)をあげていろんなことを教えたり恐怖を取り除いていったりするのだけど
子供の場合は(もちろんいろんな育て方があるけど)
私は結構(今流行りの、笑)モンテッソーリ教育とかいいなって思ってて、
モンテ的には「褒め言葉をご褒美にしない」っていうのはとても大事にされていることだったりで、
子供の自立を促す・自己肯定感を高めるという子育てを目指すとすると、親に依存させすぎないというか、自分でなんでも決断できる力を養うのが大切で、
犬と飼い主の関係性とは目指すところが全く異なるわけで。(当たり前なのだけど)

生後3ヶ月の子犬と1歳5ヶ月の子供、今どっちが賢いかっていうと微妙なところで、数年の間は競る感じだろうと思って眺めてるのだけど、
そんな一人と一匹に真逆とも言っていい対応してると脳トレみたいで、頭の中が忙しい。そんな日々を送っています。

なんだか干城さんの書いてくれたことにあまり反応できていない気がするけど、昔、友達としてた文通ってこんな感じだった気がする。
会話のような、一人語りのような。
でもすごく楽しかったの。とにかく交流することが。


(221013)干城
まやの最後に書いてくれたことって、僕はすごくポジティブに取ってて、
やり取りってこのくらいでいいっていうか、反応ってこのくらいでいいっていうか、
なんていうか宙ぶらりんな感じをよく表す言葉が見つけられないのだけれど、
交流の1つのあり方として、とっても良いよね、有りだよね、って思う。

このやり取り、公開するようにしてから、テーマだったり、それなりに絞るというか、
1ヶ月に1記事ってことだから、それに合わせてやり取りを重ねたりして、そういう意味で、すごく線的になったよね。
(公開の前は、間がもっと空いたり、ぎゅっと詰めるときもあったり、ポツポツとして偏りがあった。)

でも線的にというか、1つ1つ応対していくと、基本的に深くなるか、結論を出して次に行くとか、目標とか方向が必要になってきたりして。それって結構大変で。
そうやって論理を重ねたり、議論を深めたり、っていうのも大切なあり方だけど、それはコミュニケーションのなかの1つの技術というかで、
だからそれが選ばれないときもそれはそれで全然良いし、
(あるいはコミュニケーション自体さえ)本来的には継続されなくても良いものなのかもしれない、と勢い余って思ったりする。
交換日記とか文通とかって、“会話のような、一人語りのような” ができるのが良いよね、って思う。(会っててもそういう空気感が共有できたりすると良いのかもしれない。)

と、一旦かっちり打ち返しつつ。

人生経験積むターンって面白いね。
しかし資格を取得しようって、すごく意欲的だよね、と思う。
僕は運転免許以来、資格を取得しようとか、何かそのための勉強とか、ほとんどしてないような気がする。
必要に応じて、何かに対応するための勉強は、もちろん生活のなかでしていたりするのだけど。

勉強が好きとかなのか、趣味的な感じなのか、ある意味ついでになのか、実利として資格を取得したいのか。とか。
どんなモチベーションだったりするの?


(221013)まや
そっかあ、よかった。
公開するようになってから、たぶん勝手にプレッシャーを感じてた部分があって、あえて線的にしていたのだと思う。
でも演劇もそういう時あるけど、見せるために整理されたものってつまらなくなる場合が多々あるよね。
雑音減って受け取りやすくはなるけど、豊かさも同時に失われてしまうというか。
日常会話のお喋りの豊かさって確かにあって、決して議論じゃないやつ。
あー言いたいこと全部話し切った!って思うことってあんまりなくて、(これ以上話すことがない、とかはそれはそれであるけど笑)
いつも話し足りないなって、ほんの少し欲求不満なまま終わったり。
それってきっと、会話の中で相手がとりこぼしていくこともあるからなんだろうな。
欲求不満だから、別れた帰り道で続きを考えたり、一人になった時間にそういえば‥って思い出して考え始めたり。するんだろうな。
ここでのやりとりもそんな気楽な気持ちで臨もう。


資格と、わたしの担うもの/代わる代わる廻る役割

資格をとるモチベーション、
あげてくれたもの全部当てはまるけど、一番は実利的なところかも。
「子育てと両立しやすい仕事がしたい」的な。
乳幼児睡眠コンサルタントって私も悩んだ時にお世話になったのだけど、LINEとZOOMでのやり取りだから家に居ながらにしてできるんだよね。

趣味的だったりついでっていうのもかなりそうで、子供の睡眠に悩んだおかげですごい詳しくもなったの。そしたらおもしろいなーって趣味的に好奇心もたくさん湧いたし、もうすでにそこそこ詳しいからどうせなら資格取って仕事にしちゃうか、的な。

あ、でも資格取ったら説得力になるかな?っていうやっぱり実利的な部分も強い。
子供の睡眠で悩んでる人が本当にたくさんいて、知ってる人でもそうだしネット上でもそうだし、地域の子供の遊び場とかに行ってもみんな相談?愚痴?を話してる。
詳しいからいろいろ言いたくなるんだけど、資格がないと説得力ないっていうかあまり響かないんだよね。
今日たまたま、娘とちょうど1年分年が離れている赤ちゃんとママと話したんだけど、「夜何回も泣いて起きてその度に抱っこして寝かしつけてて、一日中寝かしつけてて、毎朝怒っちゃうんです」って結構ヤバめな目をして話してて。

一年前の自分を見てるようで、その人すでに詳しかったから少し踏み込んで話してみたけど、少しでも響いてればいいな。
なんて、願う夜です。雨。


(221014)干城
なるほどねぇ。

ママたちとの話がどういう感じかはわからないけど、たしかに資格って1つ拠り所になるのだろうね。
評価が保証されてるわけだし、一定の説得力を持つだろうし。
こちらから言える、ってのもあるだろうけど、向こうから聞いてもらえる、っていう方向性ができやすいのが、すごく良いのだろうなと思う。
こっちから言うってことより、聞かれたことに答えるの方が、圧倒的に、なんて言うんだろう、"やりやすい" と僕は思うんだよね。
そういう役割みたいなものが少し見えるようになると、雑多で漠としたコミュニケーションってものが少し簡単になるような気がする。

人に対して何か言うのって、僕の今の年齢だと、だんだん難しくなってきてる感じがして。
聞かれてもないのに、ついアドバイスとかしたくなったりするんだけど、そんなのね、相手が必要だと思ってるわけでもないだろうし。
そう思って、できるだけ踏み止まろうとしてる。
自分が若年だったころ、例えばそんなアドバイスみたいなのをもらったとき、そんなこと言ったってどうしたら良いんだよ!? みたいな、なんていうか、若さっていうか、反発する気持ちがあって。
聞いてどうするかは自分が決めれば良いんだから、もうちょっと聞いてても良かったなと思うんだけど、とりあえず聞くってことさえあまりできなかったように思う。
とにかく色々と、余裕がないから聞けなかったんだと、いまになって思う。
自分から質問するにしても、何をどう聞けば良いか分からなかったようにも思うし、その辺もひっくるめてオープンに聞ければよかったけど、難しかったな。



小角まや、干城の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m5e18eb4b7f06


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