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神さまを知らずにぼくらは生まれた

幼いころ、初詣に行くというので両親と一緒に車で出かけたことがあった
でも、会ったこともない神さまに頭は下げたくない、そういう理由で神社には行かずに、ぼくだけ車の中で待っていた
あの時どうして頑なに初詣に行きたくなかったのか、でもそれが神さまへのはじめての反抗期だったのかもしれない

神さまにたいして敬虔な気持ちがないわけではない
教会や神社仏閣を見てまわるのはとても好きだし、仏像や鳥居のもつ荘厳な気配に気圧され、山奥に突然現れる道祖神には深々と一礼もする
海外に行く時には、かならずその土地の宗教施設や遺跡を巡り、神さまの気配をたどるようにしている
好きになったり嫌いになったり、軽蔑するときもあるけれど、無視できないから注目はしてしまう
そんな神さまにたいして、今も昔も変わらない疑問がひとつある
あなたはいったい誰なんですか?

世界を創り、生物を生み、時に人間を助け、人間を見放し、万能かと思えば、ささいなことで殺し合ったり、たった1人かと思ったら、そこらの草木にたくさんいたり、踏み絵としてふまれたり、御柱として祀られたり、踊りで呼び出されたり、続々と生まれ変わっているかと思ったら、とうとつに世界を破滅させようとする
何がしたいんだ、いったい
でもその問いに答えてくれたことはまだ一度もない
それでも神さまのことを想うのは、その神さまに動かされてきた人々がたくさんいて、いいことも悪いこともたくさんあるけれど、その大きな原動力によって人間は生きながらえているということ、その歴史のうねりがつくる力強さにぼくは惹かれる
だから彼(彼女)のことがもっと知りたいのだ

ぼくは東京に生まれ育ち、現在は三重県の山間に住んでいる
とくにどこの宗教に属しているというつもりはないけれど、親しみがわくのは神道や仏教になる
キリスト教やイスラム教のような一神教はいまいちピンとこない
至高の存在によっていつも高いところから見られているよりは、いたるところに何かが潜んでいて、しかもそれがなんなのかが誰にもよくわからないという、八百万な状況の方が身が引き締まって好きだ
この肌がゾワゾワしたり、ホッとしたりするような皮膚感覚によって導かれるものが、いまのぼくにとっての信仰の対象ということになる
宗教としてどうかということになるとわからない
運動するのは好きだけど、部活動に入っているわけではないという例えをすればいいのだろうか
部活に入らなくても、一人で運動はできる
宗教団体に所属はしなくても、一人で信仰はできる
信仰の対象とかたちはさまざまだけれど、所属の有無はまた別の話だ
それが信仰の自由ということだと思う

神さまはいるのだろうか
いると言われればいる気もするし、いないと言われればいない気もする
いて欲しいと思うこともあれば、いない方がいいと思うときもある
神がいるかいないかは、宇宙の果てがあるのかないのかと同じで、どちらでもかまわない
かまわないというより、スケールがわからないので気にできない
それよりも神さまへの信仰が導く行為そのものに興味がわく
ぼくは基本的には神さまにたいしては半信半疑だけれど、神を信じる人たちの行為は信じている
大昔から宗教は人類と一緒に育ってきた兄弟みたいなもので、人々は神と呼ばれる名の下に集まり、連帯し、利用し、支配し、何かを成そうとしてきた
その脈々と連なる物語がこの世界の歴史の大半でもある
もちろんその物語にはぼくの人生も含まれている
そしてぼくは俳優なので、演技が抱えるであろう神と信仰について考えることになる

演劇と神さまの関係はとても根深い
宗教劇といえばキリスト教は聖書をもとにした演劇をたくさんつくってきたし、日本の能はむかしから神事としてとりおこなわれてきた
収穫を祝う祭は神さまへの感謝が込められ、そこでの舞踏は神さまへの贈り物か、あるいは神さまを呼びこむための依代だった
伝統芸能の世界では今でも神さまとのつながりが大事にされている
大きな劇場の楽屋口には神棚があり、作品の成功祈願のために神社に参ることもある
恥ずかしながら、ぼくはそういった神事にたいする礼儀作法には無頓着でいたので、俳優としては不勉強この上ない

ぼくが演劇をとおして神さまと向き合ったと思えるのは、ギリシャ悲劇を上演したときと、神楽を舞ったときくらいだけれど、宗教画のように美しい瞬間や、神がかり的な演技に立ち会ったりすると、神さまという存在を鮮明に信じたくなるときがある
この何か超越したものを信じるという感覚は、舞台表現では欠かすことができない
どんなスタイルの舞台作品であれ、規模の大小を問わず、観客と舞台上の出来事をつなぐのは、作品内容もそうだが、どこまでお互いを信じられるかという信頼関係だったりする
観劇において何をどう見るかは、作品上のルールをどこまで信用できるかにかかっており、上演する側は、創作上のリアリティを観客にとってどの程度信用できるレベルにまで作り込めるかに腐心したりする
だから、ゼロから信用を立ち上げるということが創作の醍醐味であり、その根幹を成しているとも言える

自分を信じる、相手を信じる、物語を信じる、虚構を信じる、観客を信じる
この信じるという行為は、信仰と無縁ではない
作品作りを通して物語の背景や歴史を考えるとき、人物の思考回路や行動を想うとき、心や魂にまで想像が及ぶときなど、そこではもう信仰の問題に一歩踏みこんでいる
信じるということは、先がどうなるかわからないところに自ら身を投じることだとぼくは解釈している
宗教的である必要はないけれど、目に見えないものや、まだ見ぬ何かと向き合うということは、ぼくにとっては祈りの行為となんら遜色がない
舞台に神は宿るのか、そもそも神はいるのかいないのか
それはわからないけれど、何かを信じて身を投じるとき、そこには神性を帯びた信仰という行為が現れる

しかしながら、神秘的なほうへばかり傾倒するのは避けなければならない
神や魂などの、見えないとされる存在を信じるのはかまわないけれど、魂を「表現する」というのは、「信じる」こととはまた別の話だ
それらがなんらかの身体がともなった方法で、具体的に観客に伝わらないと、俳優の職能としては意味がない
信じる信じないは個々で温度差があってかまわない
でも、表現としてどうやって具体化するかの足並みはそろっていたい
その技法を確立したくて日々あくせくしているが、日の目を見るのはいつのことだろう

神的なものを媒介にしようとしまいと、信じて身を投じるという行為が俳優を際立たせるとき、その信じるという行為そのものをはたして信じていいのかという疑問もまた浮かぶ
信じて身を投じたその先がかならずしも良い結果になるとは限らないからだ
なら信じるという行為に対しては、その都度批評が必要になる

何をどう信じればいいのか、その作法みたいなものをぼくらはどこで学ぶのだろうか
学校や家庭にはそういった道徳を学ぶ場所としての役割があるのだろう
ぼくの記憶をひもとくと、学校生活や家族の影響はもちろん、映画や漫画・アニメからの影響もつよく受けているように思える
ふと頭に浮かぶ言葉には、聖書や般若心経と同じくらいに、アニメや漫画の中のキャラクターが発した胸熱なセリフが多い
そしてそれらの言葉は人生の規範として、ぼくの生き方を、カルチャー・サブカルチャーの分け隔てなく規定している

聖典と漫画を比べるのは少し乱暴かもしれないが、大きな宗教ほどの影響力はないにしても、いまの日本には信仰の対象になりえるものが数多く存在する
それは神さまのような、いるのかいないのかわからない曖昧な存在ではなく、確実に手で触れられるものとして、あるいは自分のモノとして手元に置いておけるような形で存在しているものもある
日本で暮らしていると、それだけ信仰の種類と、信じ方のバリエーションは多いように、少なくともぼくにはそう見える
まるで大手モールの陳列棚に並んだ大量の商品のように、それらは簡単に手に取り、簡単に捨てられるものばかりだ

しかし、あまりに煩雑な信仰の多様化は、個人を孤立させる
わたしはわたし、あなたはあなた、何を信じるかは人それぞれという考え方は、人を自立させるには適しているけれど、孤立させるには十分な思想だ
経済的な豊かさ、個人的な消費活動、個性の尊重、さまざまな原因と要因が浮かぶけれど、その点と線の多さにぼくは頭と体がついていかなくなる
そして、誰もが天を見上げて祈った神さまはいつのまにか祠の隅で埃をかぶり、そのかわりに、人それぞれがそれぞれの神の視点を持って生きているように見える
SNSなどの匿名性はその性格を加速度的に補強していった
でもそれ以外の、身の規矩を正すような、生きるための(あるいは死にゆくための)信条や規範になるようなモラルのスケールを、おそらくぼくらは緩やかに取りこぼしている
威厳のあった親父は黙りこくり、敬虔な自然は生産のための資本になり、深淵なる神はゲームの中のラスボスになった
宗教はその教条を通して、生きるための信仰の作法を教え伝えてきたはずだが、だいぶ前からそのたがは外れている
信仰戦国時代とでも言えばいいのだろうか
信じるということは先行きの不明さに身を投じることと書いたけれど、その先行きはあまりに不透明に思えてくる

何が健全なことかは地域や時代によって刻々と変わる
だからいま自分が抱いている健全で崇高だと思える信念も、遠い未来には狂気の沙汰だというような評価をされるかもしれない
それでも「ぼくは人を信じる」と言えるほど、ぼくは「信じる」という言葉にあまり魅力を感じていない
それはぼくの信仰の浅はかさのせいかもしれないが、信仰の抜け落ちた「信じる」に身を投じるのは、俳優としては正直こわい
もし神さまがいるなら、はやく出てきて世の中をまとめてくれよと思うが、その予兆は凡人のぼくには見通すことができない

幼いころに神さまに抱いた疑念は正しかったと思っている
そのおかげでぼくは世界中に散らばる神さまの残り香を味わうことができている
人の信念をうつす鏡として、神さまにはもっと健在でいてほしいけれど、さいきんの彼(彼女)はなんだか心許ない
神は死んだとは思わない
でもその形骸はいたるところに散らばって、ごくたまに異臭を放っている
神さまのいない時代の舞台にぼくは立っているということだろうか
それとも、ぼくら自身が神さまを演じなければならないのだろうか
信じるものは救われるだろうか
それとも、演じるものが救われるのだろうか
そもそも、この物語が終わるとすればそれはいつなのだろうか
神さまに会って尋ねたい


小菅紘史



小菅紘史の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m1775a83400f9


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