確かなもの/不確かな飛び石
(220911)まや
「抹消」「解除」が終わって、次の日からガレキの太鼓『「没入すると怖いよね、恋愛」の略で没愛』の稽古が始まる。
今年は、というかしばらくの間の舞台出演はこれで最後だけど、なんだか20代半ばくらいの一番沢山舞台に出ていた頃のようなペースになってしまって、実はちょっと息切れしてる。
干城さん、「抹消」2回目観てくれてありがとう。
せっかくだから「抹消」「解除」の話を少し。
「演技と演出。立場と眼鏡。」
「解除」を観て、広田さんこの短期間で良い本2つも書いたなーと思った。
「抹消」は現代の設定で難しい用語は一切出てこなくて比較的見やすいのに比べ、仮想の近未来を舞台にしている「解除」。
肉食についてやセクシャリティに関して、聞きなれないワードが結構出てくるからどうしても説明台詞的なものも多くはなるけど、そこまで複雑なわけでもないし、75分の作品でこれだけの、現実とは違う世界観をリアルに感じさせてくれるのは広田さんならではだなあと思った。
3人芝居でやりやすいし、いろんな人が上演してくれたら良いなあと願う。
私も「解除」をいつかやってみたいし。
「抹消」チームとしては、8月頭の上演ののち少しの間お休み期間があって、8月末〜9月頭で3回の稽古を経て、本番。
9月の上演に向けて、演出として、すごくサイズ感を下げてお芝居をすることに。まさに空洞という空間ならではの、声量もスケール感も落として、お客さんが覗き見してるようなリアルな感じを目指した。
広田さんの言葉だと「客席に耳を置いておきなさい」的な、お客さんへの意識みたいなものを極端に薄くして、意識を相手に強くフォーカス。
やってる側としてはすごく楽になる部分と、ちょっとお客さん的に笑いづらいみたいなことも起こってしまったりして、学びが多かったな。
本当は大劇場で、意識がお客さんにすごーく開いている演技体だとしても、同じくらい相手への意識を強く持てていたらいいのだよね。
そういうことができていないと気づいた。どうしても分散してしまう。
あとは間の稽古でエチュードを色々やったのも個人的には活きてて。
トモロー(沼田星麻)の営業するたこ焼き屋さんに片桐(堤和悠樹)を連れていく、みたいなエチュードを遊び半分でやったのだよね。
その思い出の蓄積みたいなのもあって、
(私が演じた)ミワとして、ある種、片桐との話し合い自体が離婚の直前みたいな? 幸せな時期というか、力を合わせて一緒に何かを乗り越えた時期とかもあっただろうな、なんて想像が膨らんで、話し合いに臨むしんどさがリアリティを増して演じることができて、より楽しかった。です。
変則的なスケジュールでの公演だったけど、意外となしじゃないんだなと思った。9月末まで配信もしているので、ご興味ある方はぜひ。
https://amayadori-web-store.stores.jp
と、そんな感想を一方的に書かせてもらいました。
夏ももう、終わりだね。
(220911)干城
まやが書いてくれたことを読みながら、やっている側の方が色々起きてるんだな、という、ある種、当然といえば当然のことを思う。
こないだ友人たちと麻雀をしていて。
僕は初心者で、まあ周りも同じくらいだったのだけど、やってると、どうも自分下手だなってことは分かってきて。
「AbemaTVで麻雀見てると、なんとなくすごいのは分かるけど、早すぎて何が起きてるか追えないし。簡単にやっているように見えるけど、自分でやってみると全然できないね」
みたいなことを言ったら、
「でも、それ、なんでもそうですよね」
って、即つっこまれた。
気ままな会話なんだし、ですよねー笑でいいと思うんだけど。
ふと、すごく反省したというか。
当たり前のように受け取りすぎてると、何かを忘れちゃうような感じ。
もちろん甘く見てるわけじゃないんだけど、自分は評価をする側にいて、なんとなくリスペクトに欠けちゃうようなこととか。
そういうの、僕は無邪気に忘れちゃうこと、わりとあるように思って。
受け取る側としての評価の視線と、何かをやる側へのリスペクトの視線とがあって、
その、相手への評価とリスペクトって、同時にあってしかるべしと思うのだけど、そのバランスというかなんというか、
かなりアンバランスなんだよなと思う。
なんかさ、無理やり繋げてる気もするけど、
「抹消」はそういう、相手への視線のバランスが崩れていくような、それに抗えずに関係も崩れていったような、そんなつらさがあった。
かっちりと、正しく細部までよく見える眼鏡では、その崩れたバランスが気持ち悪く、我慢ならなくなってしまうんだろうなと。
「解除」は、それぞれが色のついた眼鏡をしていたように思うけど、何かしらバランスを保とうと、妥協点を見つけていったように思う。
それは正しくはないのかもしれないけど、そうやっている方がまだ良いような気が、僕はしてしまう。
ときどき、1年に1回くらい、コンタクトをつけないで外を歩く。
僕はむちゃくちゃ視力が低くて、少し乱視も入っているから、裸眼で出歩くのは怖いのだけど、
輪郭がぼんやりして光が滲んだ世界は、なんとなく解放感がある。
9月の後半はちょこちょこ出掛ける予定。
ここ数年は2ヶ月に1回は地元に戻ったりして、ずっと一処に居るのをほぐしたいと思ったりもしてる。
舞台をやってると、なんというか、演じることでの移動みたいなものがあって、それって俳優の楽しみだよなぁと思う。
(220915)干城
先月から特に、頭を使って(すごく考えて)書くことが続いていて、
なんて言うの、ぐーっと力が入っている状態がずっと続くとしんどくて動けなくなる、みたいになってて、
なかなか書けないでいる感じでいる。
(こないだ書いた文章とか、ちょっと頭回ってなくて、わったわったしてるというか、自分でも文脈が読みにくい)
なんかそんなだから、どんな感じで書いてたかなと、これまでのやり取りをちょっと読み返してみたりしてた。
(何気にこのやり取り、準備期間を含めると去年の10月からやってて、もう1年近くになるんだとびっくり)
人生の一部
そのなかでさ、「人前に立ちたい欲求」があるって去年まやが言ってて。
今年の春に2年振りにやって、夏にアマヤドリがあって、いまガレキの太鼓の稽古中で。
舞台をやっての、演技の話やテーマの話とかはこれまでしてきたけど、
なんていうか、そこから離れた、個人としての感覚っていうか、
欲求ってどうなったのかな、っていう、なんかそんな話を聞きたいなと思う。
(220915)まや
話題を振ってくれて、私もちょうど1年前くらいのやりとりを読み返してみた。
もう1年も経つなんて。
1年前はまだ子供を授かってから舞台に立ってなくて、それ以前と以後で、全然、それはもう全然気持ちが違うって文章を読みながら懐かしかった。
人前に立ちたい欲求について。
今年、もうすでに沢山立たせてもらったので、今は正直思わないというか、立つのが当たり前みたいな感覚になった。
4月、2年ぶりに舞台に立つ時は、久しぶりだったし、
子育てをしながらは初めての舞台だったから両立できるのかなあ?って怖れとか不安が結構大きくて、出番も結構制限してもらったりしたのだけど、楽しむという余裕はほとんどなかった。
それでも、なんとかやったぞ、っていうのは自信になって、
6月末からアマヤドリの3人芝居の稽古。
とんでもない量の台詞が本番10日前に来た。
過去を振り返ってみても一番台詞量が多いし、時間ないし、でも意外と覚えることができて(や、めちゃくちゃ頑張ったけど笑)、本番、広田さんがすごい褒めてくれて。
だから実は私の演技に関しては演出もほとんどコメントがなくて、本当に好きにやらせてもらえた。
目の前の相手とやりとりする、っていうことくらいしか最終的には考えてなかったかも。そのくらい自由に。
千秋楽の次の日から今度はガレキの太鼓の稽古に合流したわけだけど、劇団競泳水着ともアマヤドリともまた全然毛色が違うし、私が一番年下で出演者のみなさん実力者ばっかりで、どんな作品になるだろーってワクワク、日々してはいるのだけど。
そんな感じで日々をバタバタと過ごしてるうちに、
人前に立ちたい欲求が満たされて、立つのが当たり前、
立つ前提で考えてるというか。生活の一部に戻ってきた感じになってきた。
「抹消」の経験は大きかったなと思う。
あれだけの短時間であれだけの台詞を覚えて1時間ほぼ出ずっぱりをやれたんだから、なんでもやれるんじゃないか?って気にはなってる。
自信がついた。
あと、広田さんもそうだし、上野さんも、観てくれた人も沢山、褒めてくれて、良かったと言ってくれて。
干城さんが競泳水着の時に書いてくれたように、“持ってる荷物を減らした”みたいな感覚ですごく今やれてて、肩の力抜けてるというか。
前よりすごく楽なのに、正直前より褒められる感覚。笑
もちろんそういう良い感想を持たない人もいただろうし、あとは自分の受け取り方が楽観的になったというのもあるのだろうけど、(周りの評価に以前より執着しなくなった)、
楽に舞台に立てて、純粋にそれがすごく楽しい。
というのが今の心境。
ガレキの太鼓が終わったら今度は圭介の出演があったりもするので、次の予定はまだ全然考えていないのだけど、
そうだなあ、子育てが私の人生のいま中心にあって、だけどそれ以外のこともしたい、その中の一項目として演技することがある。
そのバランスがうまく取れている感じかな。
そう、それに、お休みしてもまた思い出せるんだって。
もちろん若さとか体力とか失ってしまったものもあるけど、お休みしても、その分人生経験を武器に戻って来られるんだっていう安心感があって、しあわせ。
ナルシシズムとぐだぐだなミルフィーユ
そういえば星麻が、「人前に立ちたいなんて思うやつはみんな、ナルシストだ」って言っててすごく頷いたんだけど、
きっと干城さんの中にもいるであろう、人前に立ちたいと思ってしまうナルシストな自分を最近はどう発散してますか?
もうすぐまた寒くなっていくんだね。
(220916)干城
なるほどねぇ。
なんかすごく率直でシンプルで。いいね。
変わらないものってのは絶対あるのだろうけど、なんだろう、実は変化のほうが断然多いんだよね。
どういう形でか記録しておくことで、現在と比べられるから、変化を見つけやすいんだろうな。
人前に立ちたいと思ってしまうナルシストな自分を、最近はどう発散してますか? って質問、ムズいな。
前提になってる星麻の発言も、半々くらいの受け取り方だしな。
でもこうやって言葉にして、書いて、っていうやり取りとか、自分だけで書いてる記事とか、そうやって(公開を前提として)書くことで、発散させているそんなようなものはあると思う。
あと、これまでやってこなかったこととか不得意ジャンルとかをちょっとできるようにするみたいなことで、何か解消されているものもあると思う。
ちょっと泳げるようになったとか、ちょっと歌うまくなったとか、3手詰めはだいぶ早くなったとか。笑
人前に立ちたい欲求って、根源的にはあるのだけど、(褒められたいとか認められたいとかの方が強かったと思うし、)
いまは、僕にとっては、演劇とか演技とかをやる理由って、自分が遊び相手だっていうのがあると思うんだよね。
もちろん芝居の中では相手役のためにとか、上演としてはお客さんのためにとか、色々な場面で相手が変わってくるところはあるのだけど。
演技について考えるのって、実は自分だけでもかなり楽しい。
(前より今の方が、共有したいなって気持ちは増えてるけど。)
一人っ子だからっていうのもあると思うのだけど、みんな結局いなくなって、自分で遊ぶしかなくなるでしょ、っていうのがたぶん小さい頃からずっとあって。
それで相手してくれるのが昔は僕はゲームで、小学生のころとかは特にだと思うんだけど、すごいやってて。
(学生じゃなくなったくらいから、ゲームあまりやらなくなったけど、昔と比べればだから、やるし好きなのだけど)
でも演技のこととかって、もう何やっててもつながってくるというか、ずっと自分と遊べるというか。(もちろん誰かと遊べるのもとても楽しい)
なんか、そんなことを考えた。
だから人前に立ちたいみたいなナルシシズムは、あまり無いのかもしれないな。(それこそ欲求として湧き上がってくるかもしれないけど)
でも今月あれだな、書いてることすごい自信ないっていうか、不確かなところで書いてると思う。
なんか書いたり言ったり、言葉にできるけど、実は全然思ってもなかった、みたいなことが自分にあることに、ときどき気づくことがあって。
自分としてはそういう不確かさというかも面白いのだけど。(半分くらい困りもするし、それを受け取る人は大変ですよね、、とは思うのだけど)
で、わからないなぁってなってるときは、わからないながらに確かなところで言ったり書いていたりしてるっていう自覚があるから、
わからないってのと不確かだってのは、ちょっと別だし。
で、確かにそう思うって書いたものが、間違いでした、ってなるのももちろんあるから、そういう区別も難しいのだけど。。
と、まあ、今月僕はすごくぐだぐだしてるね。苦笑
人前に立ちたいとか発散とか解消とかはまあ置いといて、芝居はしたいなと思う。
(220918)まや
私も一人っ子だから、自分が遊び相手って感覚は幼い頃すごく持っていたなあ。
しかも母子家庭で小学校高学年くらいから鍵っ子だったから、家で一人でハリーポッターを朗読とかしてた。
確実にあれが私の俳優としてのルーツだな、笑
なんか自分は今、母として、
「娘(1歳)に対して一緒に遊んであげなきゃ」とか
「一緒にいてあげなきゃ」とかってプレッシャーをすごく感じているのだけど(その割に舞台に沢山出ているのだけど笑)、
鍵っ子の、しかも一人っ子だったことで、一人で遊ぶ力みたいなのは確実に養われたよね。
一人っ子って少なからずそうなのかなあ。
母は本当に仕事頑張って稼いでくれてたから、時々帰りが遅いときとかもあって、晩御飯待ち切れなくてお腹空いたら、勝手に冷蔵庫からウインナー出して焼いて食べたりしてたもんね、笑
そう思うと、あんまり構いすぎないのも自立心を養えるよね。
と、ちょっと脱線しましたが。
演技は、そうだねえ。なんでこんなにおもしろいんだろう。
ってくらいずっと考えられちゃうし、ずっとおもしろいよね。
そう本当に、何やっててもつながってくるんだよね。
生きることそのものが演技につながる。
だからあるあるだけど、「生き方が舞台上に出る」的なこと言うんだろうなあ。
自分のことはわからないけど、人を見てると本当生き方出てるなあ、って思うものね。
不確かなところでぐだぐだ、私はいつもそんな感じなような気がする。
言葉との向き合い方がぐだぐだというか、右脳的な、勘の部分でやってて、しかもそこまでこだわりがないんだと思う。
干城さんの書いてる、
「書いたり言ったり、言葉にできるけど実は全然思ってもなかった、みたいなこと」
これって、もう少し具体的に言うとどういうこと? すごく気になる。
不確かといえば今、ガレキの太鼓の稽古は確かなものをあえて作らないスタイルで進んでて、すごく斬新だよ。
エチュードって言うわけでもないのだけど、台詞をあえて決めない箇所とかが割と沢山あって、とりあえず台本的なものはあるのだけど、「栞」って呼んでて。
そらみちゃん始め今回のみなさんとは舞台を一緒に作るのは初めてで。
まだ探ってる部分もあってそれこそ不確かだらけだから、また改めて言語化できたらいいな。
小角まや、干城の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m5e18eb4b7f06