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陰謀論で不気味に感じること

 ずっと以前のことである。どのような経緯であったか、俺は秋葉原通り魔事件の動画をみていた。秋葉原通り魔事件とは、2007年に東京の秋葉原で起きた無差別殺傷事件である。犯人の加藤智大はまずトラックで数人を跳ね飛ばしながら歩行者天国に突っ込んだあと、ナイフを手にして次々と通行人を刺していった。7人が死亡、10人が重軽傷の大事件である。当時の俺はまだ小学生であったが、テレビのニュースを通して世の中が騒然となっていたことは覚えている。あの頃はまだ実感が無かったが、翌年にはリーマンショックも起きていて、とんでもない時期をノホホンと親の庇護にあって過ごしたものだと思う。
 そんな加藤智大であるが、俺がその日みた動画では、加藤智大の起こした秋葉原通り魔事件において、実は真犯人がいたということが投稿者によって頑なに主張されていた。勿論、これは陰謀論の類いであろう。動画中では、加藤がナイフで次々と通行人を刺していったにも関わらず、返り血を浴びていないことや、返り血を浴びた男が他にいたという目撃証言に注目し、加藤は日本政府によって犯人に仕立て上げられ、真犯人は他にいるということが唱えられている。勿論、返り血を浴びた男が他にいたというのは、報道に混乱があった当初のマスコミの誤報であることが判明している。返り血を浴びていないことに関しては、直前のトラックでの殺傷が抜けているし、ナイフで刺したからと言って必ず返り血を浴びるというわけでもないだろう。特に、加藤智大が犯人であるのは、加藤自身の手記によって明らかになっているではないか。様々な誤報からデマが熟成されていって、このような陰謀論が囁かれるようになったに違いない。

 ただの陰謀論だと思えばそれまでである。テレビのリモコンを停止して、次の動画に映ればそれで良いのだ。だが、陰謀論に関すると、何とも言えない気持ち悪さが付き纏うのだ。俺たちは、あまりに安易に陰謀論を切り捨ててはいないだろうか?
 俺がことに陰謀論についてゾッとしてしまうのは、陰謀論を信じているからではない。正確にいうと、陰謀論ではなく、陰謀論者たちのメンタリティにである。秋葉原通り魔事件に真犯人がいると主張している人間にとって、事件の犯人は加藤智大ではない。真犯人は他にいる。事件は今でも続いているのだ。
 想像してみるといい。ニュースでは加藤が犯人と報道された。彼の家庭環境、就業状況、趣味嗜好にまでスポットライトが当てられる。そして、加藤の手記が出版され、さらに時が経つにつれ話題は風化していく。何か無差別殺人が起こるたびに、事件が再び注目されるが、それは以前ほどではない。そのような時の流れの中、陰謀論者たちの間では、今なお真犯人が存在している。

陰謀論の動画。画像の上に流れる無機質な白いフォントが、どこか淋しさを感じさせる。



 俺には忘れられない過去がある。高校時代のイジメである。あれからもう10年近くになるが、未だに忘れたことはない。最初は同情してくれた周囲も、俺が囚われているうちに「またかよ…」「過去を切り捨てて…」と、呆れたような顔になっていく。でも忘れられないものは忘れられないのだ。そうしていくと、周囲との「時間差」が生まれる。未だに過去に取り残された自分と、現在を生きている周囲。過去はどんどん風化していくが、自分だけが色褪せた過去を「現在」も体験している。恐らく誰にも理解されることはないし、誰かに理解される時期もとっくに過ぎてしまったのだろう。
 陰謀論はなんとなく似ている。もし通り魔事件で自分だけが真犯人を目撃していたら…。周囲と主張が相反していたら…。自分だけが真実を知っていたら…。それは想像を絶する孤独の中、身を置かれることになるに違いない。

 動画には不気味で物悲しいBGMが流れていた。終始一貫して、真犯人だとされる、事件現場にいた肌が浅黒い太り気味の男を映し出している。無機質な解説文字。荒い解像度の画像。BGM。投稿者の誰にも理解されない孤独が伝わってくるようで、それ以来ずっと忘れられないでいる。

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