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(詩篇)渋谷、死者のまち2

 神の似姿に作られた唯一のはずの高等生物、人類に的を絞った未曾有の災厄が降りかかってから、白木は水緑となり、冬は夏になり、各国は鎖国し、街は閑散とし、天使や悪魔の絵を飾り崇めた公堂は多くが閉鎖され、星はその公転周期ももはや半周した。人類の単位で1050万キロもの距離を太陽を挟んで離れたことになる、が、地表重力に安寧としている人類はそのことに微塵も気がつかない。災厄の拡大数は被災人数のみが国家から公表され無駄に恐怖をあおるがその詳細は明かされない。詳細を明かさ無いのは、それに対応した為政者の対策の是々非々が議論されるのを防ぐためだろうか。その通りであろう、それはかならず批判的意見ばかりになる。ではそれを批判する人物たちの代表を集めて執政させたとしては?同様に批判が集中することだろう。

 人類は愚かなのである。

 神と異なる彼らの最も得意なことは何か?即答しよう、繁殖である。これは蟻やプランクトンと何ら変わりがない。では不得意なことは何か?考えることである。これは蟻やプランクトンのほうが優秀であると言わざるをえない。なぜなら人類は、「宇宙に果てはあるか」「なぜ生まれてきたのか」「どのように生きるべきか」「妻との関係をどのようにすべきか」などを考えようとする。愚問である。蟻やプランクトンはそのようなことは考えない。そのようなものに答えはない、なぜなら設問が設問ならざるのにまるで人類の重要議題のように追求しようとするからである。このことは人類の先人、イマヌエル・カントが250年前にもその説明を出版したが、多くの人類はそれを読もうともしない。不勉強は怠惰であるし、愚かな人類は同じ悩みを何度も悩む。同じ悩みを二度悩む必要がどこにあろうか?人類は悩むのが好きなのであろう。「なぜ生まれてきたのか」まるで生まれてきたことが不浄かのようだ。「どのように生きるべきか」人類は幼少のころから教育によって考えさせられ続けるが、答えを教わることは無い。嗚呼、それを考えねばならないほど神に似たはずの人類は汚い生き物だったのだろうか。

 ためしに人類一般的世俗的な範囲で、各個体に各自の不得意な点を挙げさせるとする。するとこともあろうか、多くの個体は「優しさが足りない」「自国語が苦手」「人とうまく交遊できない」「絵が不得意」などと言うが、その真実は「十分優しい人物が、周囲のより優れて優しい人物に懐く劣等感」でありまた「質問された機会を利用した虚偽の謙遜による自慢」であったりする。また「自国語が苦手」と言うものは、他のだれよりも語彙が豊富で文筆家であるか、加えて他の同士には為し得ない、文章による権威ある賞などにいくつか入賞した経験があるがそれが最高の賞でないことを嘆いてる風を装った自慢、あるいはまたは・加えてであるが外国語が特に自信がある場合が多い。また「人とうまく交友できない」は…、おっと、この辺でやめておこう。いや、しかし「社会性」に関してはもう少し説明しよう。これも同様に十分社会性が器用にもあるがごく稀にミスすることを誇大顕示して謙遜して無いことを主張する場合がほとんどだが、しかし実際に、本当に社会性がなく究極的に個人主義な個体である場合がある(しかし究極的に個人主義な個体というものは、えてして社会との関係を巧みに利用するため、周囲から見るとそれなりの社交性・社会での自由な距離感を身についていて社会性があると誤解される場合もあるようだが)。

 SHIBUYAという栄えた谷ではその往来では半年前はたくさんの人間で賑わっていたのだが、こんにちでは国家(ポリス)の政策により「外出自粛」が、また逆に「経済秩序」が、などのダブルスタンダードにより人類の行動は混乱し、悪魔の視線ではその往来にうっすら影が見えるのみという事態になっている。

 近くの大手企業に通勤していたある女性諜報員の報告によればその通勤途中にある企業の建築物にはその路面に面してガラス張りのエントランスとセミナールームがあり半年前は新入社員が毎日50名ばかり研修しているのが横目で見えたという。これは拷問の一種だそうだ。拷問といえば昔は磔や鞭、そして鼠などであったがずいぶんと時代が変わったようだ。

 人類の理解を深めるために、人類で最も賢かったとされる「マルクス・アウレリウス」の著作を紐解いてみる。

 早晩、今日という日に先立って己にいうこと――私は今日も、お節介な人間や忘恩の徒に、傲慢な人間や欺瞞的な人間に、中傷家や非社交的な人間に出会うであろう。これらの悪徳すべては、善悪に対する彼らの無知から彼らに生じたものである。 
 
 夜明け不機嫌な気分で目を醒すときには次のことを念頭におくよう。すなわち自分は人間としての仕事をなすために目覚めたのだ、と。 
 
 悪はいかなるものであるか。それはお前がしばしばみてきたものである。しかして悪のみならず、すべての出来事に関しては今見るこれはしばしば自分がみてきたものであるということを念頭におけ。総じて上にも下にもお前の見出すものはすべて同じものであろう 
 
 何を人は欲しているのか。生き永らえることか。いや、感覚を持つことか。意味することか。成長することか。再び止むことか。ことばを用いることか。思考することか。以上のうちの何を欲求するのが相応しいこととお前は思われるか。しかし、そのどれもが軽蔑してしかるべきものなら、しかる後には理性と神に従うことに向かえ。しかし、かのものどもを尊重することと死によってひとがそれらを失うならば嘆き悲しむこととは、このことと矛盾する。 
 
 マルクス・アウレリウス「自省録」
 鈴木照雄 訳 

 人類に的を絞った未曾有の災厄が降りかり、災厄の拡大は留まることを知らない。その被害者数のみが公表され無駄に恐怖をあおっている。今日は何人死んだ、何人が重症だ、何人が罹患したか、と。人類は数字なのである。

 魔性のものから言わせてもらえば、もう「社会性・社交性」などという考えはやめて「個々」の身体及び個体及び精神及び思想の自由を本気で尊重してはいかがかと思う。


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