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旅芸人の恋。〜山本一生「ノボルトウコウの恋」を読んだ。

競馬を愛するすべての人へ。

最近、暑さが続き読書欲も減退気味だったのですが、昨日の夜は少し涼しくて何か読みたくなりました。

近代史研究家、競馬史研究家である山本一生いっしょう氏の以下の本を手に取り、本のタイトルにもなっている「ああ、あたしのトウショウボーイ」と、「ノボルトウコウの恋」の短編二篇を読み終えました。

2014年発行

帯に「競馬を愛するすべての人にささげられた珠玉のエッセイ集」とあるのですが、私が読んだ二篇は、小説のように感じました。
エッセイが身の回りに起きた出来事を書くものだとすると、この二篇は虚実入り混じっているように感じられました。本当のところどうなのでしょう・・。


「ノボルトウコウ」の恋。

二篇のうち、「ノボルトウコウの恋」の方は少し長め。
と言っても70〜80ページほどで、一気に読み進めてしまいました。

主人公は30過ぎの独身の男。映画好きの年下の彼女がいる会社員で、趣味は映画鑑賞、ジョギング、競馬。

ジョギングのために通っているグラウンドで年上のかつて競馬ファンだったという男と知り合い、「ノボルトウコウの恋を知っていますか?」と謎の言葉をかけられたことから、昔の資料をあたり始め、ノボルトウコウという超一流馬ではない、さりとて、まったくの無名でもない競走馬に想いが重なっていき・・。というお話。


ノボルトウコウは昭和44年生まれで、戦後最強とも言われた「花の47年組」世代(ロングエースやタイテエム、イシノヒカルらがいた世代)の一頭。
ノボルトウコウも2歳時から頭角を現しますが、3歳春のクラシック路線などのいわゆる王道路線では花開かず、ローカル競馬に活路を求め、生涯で68戦も走り、七夕賞や福島記念など、重賞5勝を含む13勝を挙げたそうです。

少しネット検索してみると、ローカル競馬をどさ回りするかのような戦績から、「旅芸人」というニックネームがついているようです。


いろいろなことを思う。


決して長い話ではないのですが、いろいろ感じることがありました。

まず文章の雰囲気。
主人公が朝起きて、豆を挽いてコーヒーを淹れ、スクランブルエッグを作り、キュウリとトマトでサラダを作るところや、主人公と彼女の会話が、少し村上春樹の小説を感じさせる。

著者の山本一生氏は、村上春樹と同時代の人ですので、村上春樹っぽいというよりは、似たような文化の影響を受けているために文体から同じ匂いを感じたのかもしれません。

ただ、主人公の彼女の言葉がなぜかときどき男口調なのですが、そこは村上春樹っぽくない。
主人公が何度もビクトル・エリセ監督作の「エル・スール」を観て、同じ場面で泣くので、彼女に「本当のことを言え。泣いただろう。」と男言葉でつっこまれます。こんな女性は村上春樹作品には出てこないような気がします。(この男言葉、なぜか私は好きですが・・。)


あとは、好きな場面。
こんな土曜日、最高だな、と思った場面です。

 ただその週末は、とりわけ暇だった。九時に起きて数日前のフランスパンにベーコンをはさんで焼き、コーヒーをいれると、競馬新聞を取りだしてレースの検討を始める。買う馬券が決まると電話投票で申し込み、それからゴロワーズの箱を破いて煙草に火をつけ、短くなるまでゆっくりと吸った。厚い煙がテーブルをおおい、しばらくして消えていく。食べ終えた食器、青いカバーのついたティッシュペーパーの箱、代官山にあるフランス料理店の灰皿、その横にはカラーペンシルで彩られた競馬新聞と、競走馬の戦績がまとめて記載されている分厚い『競馬四季報』があった。
 五月の初めの、穏やかな土曜日の、朝のことだった。会いたい人もいなければ、読みたい本もなかった。

205-206pより引用。


『競馬四季報』をご存知ない方いるかもしれないので、画像を載せますと、

こんなに分厚い。

『会社四季報』の競馬版です。

主人公は、「ノボルトウコウの恋」が気になり、恋と言うからには戦績に何か秘密があるのではと、四季報を片手にノボルトウコウの全68戦をひとつひとつ確認し、手書きで同じレースに出走していた馬の名前や着順を書き写していくのです。

この、”とりわけ暇な土曜日の行為”が、羨ましい。。

今私が土曜日の朝からこんなこと始めたら、妻に何を言われるか・・(笑)。


現在のようにネットでぱぱっと検索などできない時代。

主人公は、さらに詳しい資料がないかと、長いこと連絡を取っていなかった学生時代の同級生に電話し、昔の雑誌をまだ捨てていなかったら送ってくれないかと頼んだりもします。

同級生は、段ボールに競馬雑誌を詰めて送ってくれます。

このへんもなんともアナログです。

ただ、調べる作業が面倒な分だけ、主人公の「ノボルトウコウの恋」への執着は強まっていったようです。

主人公は、喫茶店でデート中に、彼女が手書きの資料から「ノボルトウコウの恋人」を見つけ出した時、テーブルの上のコーヒーとビールをこぼしてしまうのでした。

この場面は最後の方ですが、オチ的な内容については書かないことにしておきます。

主人公が、競馬ファンとしての自分と競走馬の関係について考える場面があります。
この部分に共感できる方には、この本をお勧めできるように思います。

 十年も競馬と付き合っていれば、多くの馬が流れ星のように通り過ぎる。成績を克明に覚えている馬は数えるほどしかいないし、名前を聞いて思い出す馬もそれほど多くはない。大部分は記憶の闇の彼方に吸い込まれ、消えてしまっている。

205pより引用。


随所に感じるリアルさ。


最後に二点、競馬を長くやっているからこそリアルに感じるのではないかな、と思った部分について紹介します。

ひとつは、「ノボルトウコウの恋」の謎かけをしてきた年上の男と初めて会話をした時に、主人公は自分は四月と五月、それに十月と十一月だけ走る、と言ったところ、年上の男から、どうして走る月が決まっているのかな、と尋ねられます。

そして、こう言います。

「じつは競馬が好きでしてね。この時期には大レースがあるので、自分でも走ってみようか、というところですかね」

199pより引用。

この、”じつは”、という前置きの一言に、自分はリアルさを感じました。

というのも、”競馬好き”、というのは少し変わっている人と見られてしまう、という思いがどうしてもあり、私はあっけらかんと「競馬好きなんです。」と言うのにためらってしまうところがあります。
(昔、同僚との会話で「競馬好き」と言ったところ、「こりゃだめだ。」と、呆れられた軽いトラウマもあり。)

二点目は、上にも書いた、”昔の競馬の資料をとっておいた同級生”。

この同級生探しが実にリアル。

 数日後、もう少し詳しい資料はないかと、旧い友だちの何人かに電話したが、だれ一人として保存してはいなかった。無理もない。三十を越せばだれだって、一度は女と住むこともあるだろうし、二人で居を構えれば古い競馬の資料なんて、まずは邪魔にされる。あきらめかけていると、一人だけ故郷である外房総に帰り、子供たちに数学と英語を教えながら生計を立てていて、田舎で家は広いからきっと、競馬雑誌なども捨ててないのでは、とのことだった。

229pより引用。

”昔の競馬の資料”をとっておく条件が、何ともリアルです。

要は、恋人と同棲したり、結婚したり、そんなタイミングで”昔の競馬の資料”などはいのいちばんに処分されるのが当たり前、ということだと思います。


この実にリアルさを感じた二点を含めて改めて考えてみると、「ノボルトウコウの恋」というこの短編は、やはり小説ではなく著者の山本氏の実体験に基づくエッセイなのかもしれない、と思いました。

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