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僕のモラトリアム時代について

20歳の時、僕は脚本家を目指そうと考えた。

かといって、目指したらなれる職業ではない。

面接に合格すればなれる職業でも当然ない。

だから僕はアルバイトをしながら、シナリオセンターという脚本スクールの通信教育を受け始めた。

間もなく、生まれて初めて長い脚本を書いてみた。

通信教育の課題とは関係なく、賞に投稿するためのものだ。

結果は、なんと1次選考で落選だった。

脚本系の雑誌でその結果を目の当たりにした時には、なんというか、本当に現実のこととは信じられなかった。

まさか自分が1次選考で落ちるなんて。そんなことあるはずがない。

きっと何かの間違いなんだ。と、そう思った。

それからしばらくして、今度は少し短めのものを書いた。

別の賞に投稿した。

1次で落選した。

僕は現実を受け入れた。

24歳の頃のことだ。


「どうも俺には才能が無いらしい」

僕は落ち込んだ。
落ち込んで、必死に考えることを続けた。

どうすればプロになれるのか。

そもそも僕が脚本家を目指した理由は、特撮系の作品を作りたかったからだ。

製作現場を取りまとめる映画監督やプロデューサーは性格的に向いていないと分かっていたから、それなら作品を根本から作る脚本を書けばいいと考えたのがそもそもの発端。

だから、賞が取れないなら、制作会社にアプローチすれば良いのかもしれない。

ということで、24歳頃の僕は、色々なことを行った。

アポなしで有名な制作会社を訊ねていって、窓口に出てきてくれた綺麗なお姉さんに「アルバイトでもいいんで働かせてもらえませんか?」と聞いたり、ネットで調べた別の制作会社の電話番号にかけて「働きたいんですけど、求人募集してますか?」と聞いたり、プロの脚本家のサイン会に行って自分の書いた脚本を渡して困らせたり、仮面ライダーや戦隊物の『ご意見・ご感想宛住所』に脚本を送り付けてみたり‥‥若かったからこそ出来た行動を沢山した。

こうして書いているだけでも、だいぶ恥ずかしくなってくるけど。

もちろん、どれも結果には結びつかなかった。

僕は考えた。

「このままだと、プロになれないぞ。どうしよう」

そんなある日、部屋に一人で居る僕の前にあるものが転がっていた。

それは、20歳の終わり頃から始めていたシナリオセンターの教本だった。

恥ずかしながら、散々プロになりたいと息巻いていたくせに、その通信教育の課題はあまりちゃんとやっていなかった。

課題提出の締切を守ったことはほぼ無くて、たまに気が向いたらやってみるくらい。始めてから2~3年、何となくダラダラ続けていたに過ぎない。

誰がどう見ても怠けていた。

僕は気が付いた。

「あぁ、これやんなきゃ」

気持ちを入れ替えて、そこからシナリオセンターの課題を僕は真面目にこなすようになった。というか、こなすようにしようと決めた。

たとえどんなにアイデアが思いつかなくても、締切を厳守してやっていこうと心に決めた。

ちなみに当時僕がやっていた課題というのは、毎回決められたテーマが与えられ、それに沿ってペラ20枚(400字詰め原稿用紙10枚分)のシナリオを2週間に1本のペースで提出するというものだった。

テーマというのは、例えば「家族」とか「過去」とか、そういうものだ。

あまりハッキリと覚えてはいないのだけど、コースはたしか3階級に分かれていて、1番初めの初級コースは半年間、中級コースは1年間くらい行うカリキュラムが組まれていた気がする(本当に覚えてないから間違ってるかも)。コースというのは、学校でいえば学年だ。ちなみに僕は経済的な理由から、いちばん上級のコースは受講していない。だからそのコースの期間はまったく知らない。

ペラ20枚のシナリオを2週間に1本。

文字にすると簡単なように見えるけど、実際にやると案外難しい。2週間なんてあっという間だ。

でも、本当にやる気のある人間なら何があろうとこなせるはずで、それをちゃんとやっていなかった僕は結局のところやる気が無かったというに過ぎない。

賞に投稿しては1次選考で落ちるというのを幾度となく経験したことで、ようやく自分の怠惰に気付いた僕は、とにかく真面目に脚本の勉強に向き合うことにしたわけだ。

週に5日、朝の8時30分から17時まで本屋でバイト。

本屋の後、週に4日くらいは18時からコンビニで掛け持ちのバイト。

22時にようやく終わると、家に帰って夕飯とシャワーを済ませ、1時頃まで脚本を書く。

それを毎日続けた。

結果、2週間に1本ペースの課題提出が可能となった。

進研ゼミの赤ペン先生よろしく、毎度課題に『良かった部分・修正すべき部分・アドバイス』などを担当講師が書き入れて返送してくれる。僕が突然真面目に課題を出すようになったから、「近頃は課題提出のペースが順調になってきて良い感じですね」という言葉まで入っていたりした。

バイトをしながら夢を追っている人間のことなんて、ハッキリ言って誰も褒めてはくれない。誰かのために行っていることではないのだから当然だ。だから自分なりに真面目に取り組んでいたとしても、褒めることができるのは自分自身だけ。そこを講師の人に認めてもらえるのは、当時の僕にとって結構嬉しいことだった。

フリーターといっても、決して楽なわけではない。

職場でのプレッシャーこそ少ないけれど、仕事は普通にするし、金銭的ゆとりもないので日々ロクな物が食べれない。好きな物は買えないし、行きたい場所に気軽に行くことも出来ない。

でもどんなに大変でも、「そのためにフリーターをやってる」と自分で自分に言い聞かせていたから、疲れている時でも必ず執筆が出来た。

ひたすらコツコツと書き続ける。

そうすると不思議なもので、自分でも腕が上がっていることが分かるようになってきた。

偉そうなことは言えないけど、脚本とは才能以上にテクニックによるところが大きい分野だ。

なぜなら小説と違って文章表現の力は不要だし、物語の構成にはある程度パターンがある。そのパターンを覚えてしまえば、才能が無くてもある程度の構成は作ることが可能なのだ。

例としてハリウッド映画の多くでは、物語の序盤で不幸の渦中にいる主人公はラストで幸福を迎える。逆に絶好調な主人公はラストで悲しい結末を迎える。ラブストーリーでは序盤で仲の悪い二人はラストで結ばれるし、序盤でラブラブの二人はラストでは引き裂かれる。アメイジングスパイダーマン2はその典型だ。

こういうパターンはいわゆるベタというもので、なぜパターンが決まっているのかと言うと答えは簡単。展開の落差が大きい方が観ている人間の感情を揺さぶれるから。

と、話が逸れたけど、当時、課題を真面目にこなすようになった僕は、課題と並行して自分の作品も書き始めた。

といっても情けないことに書きたいことが特に無かったので、課題と同じように適当にテーマを決めてそれに沿って書き進めていった。

テーマ決めは本当の本当に適当で、「とりあえず年齢にしてしまおう」ということにして、10代・20代・30代・40代・50代とそれぞれの年代の主人公をテーマに5作書くことにした。

『書くことにした』と書いたけど、『書くことにしたからスイスイ書けた』というわけでは全くない。なぜなら才能が無いから。

才能が無いならどうするか。

答えは先に書いた、テクニックだ。

でも、僕は才能が無いだけでなく、頭が悪い。

だからテクニックを理解したところで、それを作品に落とし込むことが中々出来なかった。

物語とは展開だ。

こんなことを言うとイタイようだけど、僕はキャラクター同士のセリフの掛け合いみたいな部分には少しだけ自信があった。自信があったというか、「書ける」という感覚があった。

逆に最大の弱点はクライマックスの盛り上がりだった。

言うまでもなく、クライマックスとは映像作品の見どころであり、ここがしょうもないともうどうしようもない。

かつて1次選考で連敗してから既に1年ほど経っていたこの頃、「そろそろまた賞に投稿しよう」と考えていた。だから良い作品が書けたら、それは賞対策の弾になる。

だからテーマ決めは適当にやっておきながら、実際の執筆には相当気合を入れていた。

とりあえずクライマックスの展開を勉強しよう。そう考えた僕は、レンタルビデオ店でテレビドラマのDVDを沢山借りた。

その中で1作、大きな影響を受けたドラマがある。

『野ブタ。をプロデュース』という作品だ。

亀梨和也さんや山Pさん、堀北真希さん主演のヒット作で、脚本は木皿泉さん。高校の頃に放送されていたドラマで、当時からとても好きな作品だった。

そんな記憶もあり、僕は木皿さんのファンだった。だから『野ブタ~』を徹底的に研究しようと考えた。

好きな作品なら短期間で繰り返し見ることも僕は苦にならないタイプなので、レンタル期間の1週間だけでもかなりの回数観れる。

そのうちに、あることに気が付いた。

それは、山場の先にもうひとつもっと大きな山場があるという構成だ。逆転の先の逆転ともいえる。

『野ブタ~』のあるエピソードで、野ブタの制服にいじめっ子がペンキで『ブス』と落書きをする。制服を着られなくなった野ブタを見かねた主人公の修二は、校則を逆手に取って野ブタをお洒落な私服で登校させ、学校中の生徒の度肝を抜いてみせる。

でも同じように私服で登校したい生徒が騒ぎ始めたことで、野ブタは自ら私服登校をやめると言い出し、ペンキで『ブス』と書かれた制服で登校することになる。

修二はもちろんそれに反対する。せっかく私服でみんなを見返したのに、またダサい奴に逆戻りしてしまうぞと説得しようとする。そんな修二に向かって、野ブタは偶然手に入れた一枚の写真を見せる。

そこには、落書きされた体操服を笑顔で着ているアフリカの子どもの姿が写っていた。その体操服とは他でもない、小学生時代にいじめっ子から落書きされて捨てた野ブタのものだった。日本で着られなくなった服が、アフリカの子どもたちに寄付されていたのだ。

この写真を見て、たとえ何を着ていても自分の気持ち次第で笑えるということに気付かされたと、野ブタは修二に語る。

ここまでの展開だけで、観ているこっちは感動だ。泣けるとかそういう安っぽい意味ではなくて、感情や価値観を揺さぶられる。

でも、このさらに後、修二はさらなる逆転の行動に打って出る。

これが、山場の先のさらなる山場だった。

クライマックスの展開を書いていて、僕は結構エネルギーを消耗するというか、「書いた!」という薄っぺらい達成感を味わっていた。

でも、本当に通用する作品を書くなら、

『主人公が何かをやろうとして壁に当たる→なんとか突破して成功』

で終わるのではなく、

『主人公が何かをやろうとして壁に当たる→なんとか突破できそうになるが挫折→もう本当にどうしようもないっぽい→からの限界の先に訪れる最後のチャンスという希望→もうひとふんばりして逆転の勝利』

みたいな展開が必要なのだと理解した。

起承転結の『転』は、展開がひっくり返ることでカタルシスを生む。そのひっくり返りを2つ用意するようなイメージだ。

それを意識して書いたら、今までよりは少しだけ質の良い作品が出来たという実感があった。

僕はさっそくそれをとある賞に投稿した。

それが25歳の終わり頃。

脚本家を目指してから、およそ5年近くも経っていた。

そして数ヶ月後、ついに結果が発表された。

誕生日を終えた僕は26歳になっていた。


結局、賞は獲れなかった。

その賞は1次、2次、3次、最終の4段階で選考が行われるもので、僕は3次選考で落ちていた。

あとひとつ上に行ければ最終選考で、そうなればプロの世界への入口が少しだけ見えていたかもしれない。

でも、駄目だった。

生まれて初めて手応えのある作品が書け、それが通用しなかった悔しさと、それまで1次で毎回落ちていた自分より少し前に進めた喜びと、両方が交ざる奇妙な気持ちで発表当日の夜を僕は過ごした。


あれから十年弱経とうとしているけれど、言うまでもなく僕は今脚本家にはなっていない。

26歳のあの頃は、ちょうどフリーターをやめて就職をしたタイミングだった。

20歳の終わり頃から始めた脚本の勉強時期にひとつのピリオドがついて、モラトリアムは終わって、社会人としての新しい毎日が始まった時期だ。

もしかしたらあのまま脚本修行を続けていたなら、ほどなく結果につながっていたかもしれない。

でも僕はその可能性を歩めなかった。

初めての会社員として、毎日死ぬような想いで仕事に適応することに務めていた。

入った会社は特撮に強い映像系の企業だったので、ある意味では夢としていた業界に入ったことになる。でも、夢という言葉とは程遠いような、息を上げながら働く状態になった。楽しさなど微塵も感じられなかった。

でもそのすぐそばに通っている道には、脚本家を目指してあのまま歩いている幻の自分が常にいた。

もしかしたらそっちの道の方が幸せだったのかもしれない。

今でも時折そう思う。

ただ、もうあの頃から時間は経ち過ぎた。

あっちの道に進んだら、こっちの道で出会えた人とは知り合わなかったわけで、それはそれで悲しい。

とありきたりなことも考える。

どんなにIFを考えても、やっぱりあっちの道は幻で、幻とは存在しないもので、僕にはこっちの人生しかなかったのだと思う。

結果、30代半ばの体たらく人間になって今に至るわけだけど、嘆いていても仕方がない。

ハッキリ言って、僕は自分の人生を幸せだとは感じないタイプの人間だ。

人間関係には恵まれていると思うし、収入も何とか最低限貰えている。

だからって幸せを感じることはない。

それは、目指しているものを手に入れられていない感覚が常につきまとっているから。

ただ、自分の今の生活が幸せではないと思えているだけ、まだ幸せなのかもしれないとも思う。

もし今の自分の生活を幸せだと感じてしまったら、僕は結構廃人になるだろう。

幸せではないと感じているからこそ、毎日やっていける。

でもやっぱり幸せを感じられるようにはなりたいから、求めているものを手に入れられるよう、これからもやっていこうと思っている。

で、こんなことを考えている以上、何歳になってもモラトリアム気分が抜けない体たらくおじさん状態は続くのではないかとも、こうして書きながら思っている。

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