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作家の夢を諦めた
誰が言っていたのかももう忘れたけど、ある作家が作家志望者に向けて話していた言葉がある。
「小説を書くのは、ほかの仕事をしながらでも続けることが出来る。だから”諦める”必要はない」
この言葉を聞いたとき、まさにその通りだと思った。
それでも世の中には作家の夢を諦める作家志望者がごまんといる。
「プロへの道が開けないから」「華が開く気配が無いから」
だから‥‥
「もう諦める」
こんな言葉を吐いてる作家志望が数え切れない程いる。
僕には理解出来なかった。
例えば漫画家志望やミュージシャン志望、俳優志望などなら、分からないでもない。
漫画を描くには膨大な時間や道具が必要だし、ミュージシャンはスタジオを借りたり楽器を買ったりしなければならないだろうし、俳優なら劇団に入って練習したりスクールに通ったりする人もいるだろう。
結婚してたり子供がいたりしたら、そういったことに時間と金を費やすのは簡単なことではたぶんないと思う。
でも、作家志望はそうじゃない。
パソコンとか、原稿用紙とペンとか、その程度の道具があれば事足りて。
書く時間だって生活の中で1時間でも30分でも隙を見て捻出すれば良い。
下手すりゃ携帯にWORDアプリなんかを入れて、電車の移動中なんかに執筆することだって可能だ。
つまり、やろうと思えばいくらでもやれるのが小説執筆だ。
それでも諦めようとする人間は、つまりいつまでも結果が出ないことに自分自身が耐えられないという、ただそれだけのことなのだ。
たしかに、結果の出る気配すらない行為を、延々と続けるのは結構キツイ。
昔、犯罪人に穴を掘らせて、掘った穴を看守が埋めて、また掘らせては埋めて、といったことを続ける刑罰がヨーロッパにあったらしい。
この刑罰を受けた囚人の中には頭がおかしくなってしまう人間もいたという。
自分が精力と時間を注ぎ込んで書いた作品が、新人賞の1次選考にすら引っ掛からずに落選する。
そんなサイクルが何度も何度も続けば、さすがに参ってくる。
自分のやってることは全くの無駄であると感じてきて、将来に絶望してくる。
だから、諦める。
理屈としては理解出来た。
でも、理解出来なかった。
生活の中で空いた時間に小説を書くだけなら、別に誰にも迷惑を掛けない。
本気で小説家になりたいなら、続けろよ。
そう思ってた。
ただ、ここにきて変わってきた。
僕自身も、耐えられなくなってきた。
先日、とある新人賞の結果が出た。
僕の作品は1次選考で落ちていた。
結構気合を入れて書いた作品という認識でいた。
さすがに1次は通るだろうと思っていた。
その分、返ってきたダメージはデカかった。
もうこれで何度目の落選だろうか。
小説家を目指し始めた当初、僕は1年ほどで結果を出すつもりでいた。
しかし気付いたら5年経っていた。
5年間、まったく何にも引っ掛かっていない。
さすがに、これがどういうことなのかは自分でも分かる。
この結果が何を意味しているのか。
自分でも分かる。
「もう、書くのは辞めよう」
僕の中で答えが出た。
多くの作家志望の中の、"諦める側の人間"に、自分もなる日が来てしまった。
書いていても誰に迷惑が掛かるわけじゃないけど、
書いても無駄だ。
無駄なことを続ける気力は、もう自分には無い。
「辞める」
そう決めた途端、少し気持ちが楽になった。
仕事が終わって帰宅しても、何も書かなくて良い。
疲れていたら何も考えず寝て良い。
これまでずっと、小説の進みが悪ければ頭の片隅に常にそのことがチラついていた。
「あぁ、昨夜は全然書けなかったなぁ」
焦りとか、罪悪感みたいなものを抱きながら生活していた。
そんなことからも解放された。
休日だって完全に自由になった。
「書かねば」とか、そんなこと考える必要が全く無くなった。
"何も進まなくたって良い"そんな休日が訪れる。
自分の中から、恒常的なストレスがひとつ消滅した気分だ。
作家なんか目指してなければ、こういう生活をもっと前から送れていたんだなぁと、発見した気分だった。
やがて変化は訪れた。
なんだかよくわかんないけど、1週間くらい経ったら段々と気怠くなってきた。
自分の中に、モヤモヤがある気がする。
そんなことに気付いてきた。
モヤモヤしていて気分が悪い。
だからモヤモヤの正体が何なのか、ちゃんと見据えようとした。
答えは単純だった。
『悔しさ』だ。
新人賞で落選したことに対する悔しさ。
早い話が、落選したことにムカついていた。笑
このモヤモヤを何とか晴らす方法はないものか検討してみた。
ただ、精神的に気怠いから、映画を見たりする気にもなれない。
アウトドア派でもないから、外で遊んで気晴らしする気にもならない。
ありきたりな表現だけど、自分の中に空洞が出来た虚無感がつきまとった。
そんなある日、ABEMA TV でK-1がやっていた。
格闘技が好きだから一日中その大会を観ていた。
大会の終盤、スーパーライト級のタイトルマッチが行われた。
チャンピオンの山崎秀晃VS挑戦者の大和哲也。
二人とも、僕と同世代の選手だった。
大和哲也はまさに学年も一緒で、20歳くらいの頃に旧K-1に参戦していた頃からTVで応援していた選手だった。
とても強いハードパンチャーだったけど、最近はダメージの蓄積からか打たれ弱さが目立ってきていた。
もう往年の強さは無い。
僕は正直そんなふうに見ていた。
チャンピオンの山崎も負けず劣らずのハードパンチャーで、ここ1年、2年は絶好調。
大和は好きだし応援してるけど、さすがに勝つのは難しいだろう。1R持つかどうかだろうと思っていた。
蓋を開けてみれば、1R早々、大和哲也の左フック一閃。
チャンピオンの山崎を失神KOで倒した。
失礼な話だけど、誰もが予想しなかった結果だっただろう。
戦前、大和はインタビューで語っていた。
「これまでムエタイなどでいくつもベルトを獲ってきた。でも自分が獲ろうと思って、唯一思う通りに獲れていないのがこのK-1のベルト。だから諦めずに続ければ、いつか夢は叶うとこの試合で証明したい」
このインタビューを聞いて、僕はどこか冷めた気持ちでいた。
諦めずに続ければいつか叶う。
どこでも聞くようなキレイゴトで、現実は厳しい。大和だってこの試合に勝つのはハッキリ言って無理だろう。
そう感じながら聞いていた。
しかし、勝った。
KOした瞬間、コーナーに上って絶叫する大和の姿を見て、自分を恥じた。
諦めずに続けて叶えた人間が画面の向こうに現実に現れてしまったからだ。
そして、励まされた。
同い年の、ピークを過ぎたと思われた選手が、大方の予想を裏切って証明した姿に励まされた。
テレビを消して、シャワーを浴び、布団に入り、ずっと考えた。
自分の中にいまだにあるモヤモヤ。
それを消す方法は無いものか。
残念ながら無かった。
いくら考えても、ひとつの方法以外には。
ひとつの方法以外に、そのモヤモヤを消す方法は無かった。
新人賞で落選した悔しさ。
それを消すためには、ひとつしか方法はない。
言うまでもない。
新人賞を獲ること。
それだけだ。
それ以外に道は見つけられなかった。
残念だった。
他の方法を見つけられなかったことが。
モヤモヤを抱えたまま生きていけるほど、自分は逞しくない。
それも実感した。
もう一度やるか。
ため息混じりにそう決めた僕は、パソコンの前にまた座った。
小説の世界は、あっけないほどに僕のことを再び受け入れてくれた。
そこでふと気が付いた。
こういう答えが出たってことは、結果が出ない以上、やり続けるしかないということでは?
そのことが何を意味するのか。
これも答えは単純だ。
ようするに、死ぬまでやり続けるしかない。
そういうことだ。
これはなんとも恐るべき答えである。
死ぬまでやる。
何度でもやる。
みっともなくても。
もうそういう人生なんだと、腹を括って。
逃れられない。
戦慄しながら、僕はまた書き始めた。
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