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沖縄と日本とナイチャーと伝統工芸。

母の那覇高卒業の時の寄せ書きと言うかメッセージ帳出てきた。
写真は今でも僕をとても可愛いがってくださるテル坊おばさんからのもの。

そしてパスポート持って日本の大学に入った母は、あんなにも笑い上戸でおしゃべり好きな母は、嘘みたいに声を発しない時期を迎えることになった。

年頃の女の子、その学校への沖縄から入学の子は母だけ、テレビもない時代に未知の沖縄からパスポートを持ってやって来た子に向けられる無邪気にしろ何にしろ好奇な目。

全く話せるわけもない標準語とイントネーション。

幸いと言うか母の旧姓は「山里」

彼女が内地にもありそうな苗字で本当に良かったって思ったのは自然な事だと思う。

母が受け取ったあれこれが差別だったのかはわからない。
でも当時の思い出話の折につぶやいた「私だって日本人なんだぞ」て言葉からは複雑で重たいものを感じた。
母が沖縄にいた時に抱いた日本への、大東京への憧れと不安、そしてそれ以外の感情。
実際の暮らしでは身を守るために無口にもなり、電車に乗っては「東京の女子高生たちはなんて白くて可愛いんだろう」っても思ったらしい。

さて、そしてここからはその10年後くらいにそんな母のところに、東京で生まれた僕の話。

僕の最初の(考えたら最後の)就職先は東京八王子にあった捺染工場、そこでの初日のこと。
もう今から30年ちかく前のこと。

もう定年も超えてそうな昭和な先輩おじー達がタバコ吸いながら「変わったな苗字だな、お前沖縄か?」て聞いてきた。
僕は内地でも珍しめな苗字ではあるんだけど、何も気にせず「あ、母が沖縄ですよ」て答えたらその場がすごく気まずいような不思議な雰囲気になったのはおじー達の中にある沖縄に対する何かしらの、あまり良くない思いからだったのかもな、て今になって思う。

あのころのあの世代だとそんなものなのかもしれない。
「昔一度旅行で行ったけど飯が不味くてな」
みたいな事も後に平気で言われたし。

で、その職場を辞めて数年後、僕は沖縄に渡って今に至る。
沖縄で伝統工芸である紅型をやっている。
わかるかな?
「沖縄」の「伝統工芸」を「内地人」の僕がやっているのだ。

沖縄の人からもあまり歓迎できない反応をされる事もある。

「ないちゃーか」
て言葉に含まれる、どうしようなく引かれる国境線。
心が寒くなる国境線。

母が50年以上前に東京で感じた「私だって日本人なんだぞ」にきっと似てる。

僕には本当にわからないんだよ
何年、何代その場所に住んだらその土地の人ってなるんだろう?

いや、別に「何々人」に同化したい訳ではなく、それぞれのまんま個性を認め合えさえすれば余計な国境線いらないのに、てこと。

だって全員どっかからきたんじゃん。
全員アフリカから流れ着いて、この後どこに行くかなんて誰にもわからないじゃん。
ずっとここに居たくても個人の意思でどうにもならない事だって起こり得るわけで。

僕はなに人であれ、素晴らしいことをした人を同じ人類として、人の持つ可能性として誇らしくも嬉しくもなるし、愚かな人を見れば同じくどこの人であれ同じ人類として残念にもなるし悲しくもなる。

もちろん日本に生まれたし暮らしてるから、喜怒哀楽全てを僕に与えてくれる人は日本人の場合が多い。
この場所に愛着もあるけど、この国以外で暮らした事もないし、海外は1週間くらいロンドンに滞在させていただいた経験しかない。
もっと言えば日本も沖縄と東京以外で暮らした事もない。
もっともっと言えば沖縄も東京も結構広い。

つまり僕には好きとか嫌いとか、差異をジャッジする道具が何もないんだよ。

人類は素晴らしくて愚かだ。

僕にわかるのはそれだけだ。

差別が許されないって思う理由なんて山ほどあるけど、母が沖縄から内地に出て体験したこと、僕が沖縄で感じる事、その辺りも僕自身の差別に対する考えに大きく影響してるように思う。


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