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傷つけられたことは覚えていて、傷つけたことは気がついてさえいない

柴♀ベルが亡くなって半年余り
亡くなった近しい人達のことを考える

その人達は、高齢だったり、病だったり、日本がこんなに暑い夏を迎えるとか、地震やら大雨やらで大変だなんて知ることもなく逝った
ベルとあったこともない

ベルが逝く
この現実と自分の年齢とそんなタイミングが思い返させるのだろう

それぞれに吐かれた言葉
嬉しかったものは微塵も出てこない
それなのに傷つけられた言葉だけが浮かび上がる
30年以上前のあの言葉

たとえば、初めての妊娠中にお腹の子の性別を唐突に姑から「どうせ女だ」と言われたこと

思い出しては、ああ、私はあの人達のあの言葉に身内なんて何の意味もないと感じ
それ以上に身内だからこそ深い傷になるのだとも思い
近しい人を嫌いになり
その人の為に何かすることを根本から避け
誰かに弱音を吐いたり
相談したり
全く意味がないことだと深く刻んで生きた

でも、思う、考える

私はあの人達を傷つける言葉を吐いてしまっていたのではないか

いつ何を言ったか
わからない

傷ついてなんていないかも知れない
傷ついても忘れてしまっていたかも知れない

あの人達に悪気はなかったのだろう
何かを言ったかも知れない私にも悪気はなかった
悪気がなければ何でも良しではない

お互いにお互いの言葉に傷ついた時
大抵は黙ってしまう
腹が立っても、ムカついても、悲しくなっても
口を閉じてしまう
そこからはワダカマリを抱えて生きる

気づかせてくれたのは、またベルだってね
嫌な感情はベルへの感謝に変えて生きて行けるように
まだまだ人生のレッスンは終わらない



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