見出し画像

楽しさと利益のためにラクダを巧みに扱おう - 「マルコポーロの旅路」におけるランダム性と多様性の相剋(Manipulating Camels for Fun and Profit - Randomness Versus Variety in The Voyages of Marco Polo)

本記事は、Anthony Faber氏が2016年8月28日に投稿した「Manipulating Camels for Fun and Profit - Randomness Versus Variety in The Voyages of Marco Polo」の翻訳である。

今回もかなり前の過去記事の翻訳である。「マルコポーロの旅路」のレビューだが、それにとどまらない内容となっている。ランダム性と変動性(可変性)に関する詳細な考察がみられると思われる。

「マルコポーロの旅路」は傑作と名高いゲームではあるが、このような経緯により、センシティブな話題を抱えてしまい、再版が見込まれていないゲームとなっている。

元記事は以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像は、BGGから引用させていただいた(クレジット: W. Eric Martin)。なお、一部リンク切れの画像があったことから、こちらで適宜画像を引用している。

クレジット: Jesus A. Perez

新規プレイヤーに「マルコポーロの旅路」を紹介する際に、私は、最も的確にラクダを手に入れて巧みに扱ったプレイヤーが大抵の場合に勝者になるということを伝えている。

この話をすると笑いが生まれるんだけど、図らずとも真実である。この作品は、最も効果的にランダム性を抑えたプレイヤーが勝利することとなるダイスプレイスメントゲームだ。このランダム性を抑えることの多くがダイスに影響を与えるラクダの効果を使うことで達成される。「マルコポーロの旅路」は、実際、とりたててランダム性のあるダイスゲームではない。同時に、私は、このゲームの素晴らしさが、かなり大きな変動性をもっていることだという論拠を示そうと思う。

長い回り道

私の言いたいことを完全に説明するためには、マルコポーロと素敵なラクダの世界から大きく外れる(a long divergence)必要がある。私は、明白に"ランダム性"と"変動性"という言葉を全く違う意味で使い分けているので、説明させてほしい。私は、ランダムで決定されるあらゆるゲーム要素のことを"ランダム性"と呼んでいる。ゲームのいかなる時点においても、あり得る選択肢やバリエーションが増加するランダム要素を"変動性"と呼んでいる。

全てのゲームには、どのくらい多くのランダム性を取り入れるかに関するトレードオフがある。全くのランダムなゲームは、意味のある選択を全くもたらさず、BGG上で"ゲームではない"とよく呼ばれてしまう。「Candy Land」のようなゲームは、完全にランダムなダイスの出目が結果をもたらし、技量や選択は結論に全く影響を及ぼさない。同時に、「Candy Land」においては大した変動性もない。そうすると、このゲームは、ダイスによる動きと勝者が、まさにそのまま決定されるという単純な変動要素しかないため、毎回かなり同じような展開となっていく。このことを単純化したものが、単純にダイスロールだけで確定するようなゲームにみられる。つまり、高い出目を出した人が勝つ。そういったゲームは、完全にランダムだが、変動性は全くない。ダイスの出目を比較して、毎回全く同じ展開となる。

これを表現するならば、"2つの要素の1番悪いところを採った(worst of both worlds)"ゲームになるだろう。完全にランダムだが、どのようにゲームがプレイされても、真の変動性が全くない。

こういったゲームと、完全にゲームからランダム性を排除して純粋な技量勝負を生み出すゲームを比較してみよう。例えば、「チェス」だ。「チェス」にはごくわずかなランダム性しかない(このことについては、後で少し立ち戻ることとする。)。「チェス」の結果は、ほぼ完全に技量によって決定される。同時に、このゲームは、同じルールで、同じ駒の配置で常に開始するという点で、ほんのわずかな変動性しか伴わないまま始まる。

変動性が全く伴わないまま開始するゲームにおいて、あるゲームと別のゲームの序盤は非常に似通っているか、非常に決まりきったものになり得る。「チェス」や、変動性がゼロ又は低い他のゲームは、毎回、全く同じゲームの序盤になってしまう、決まりきった"オープニング"なりがちだ(ユーロゲーマーだったら、「プエルトリコ」を思い浮かべるといい。)。

しかし、「チェス」では、変動性が現れてくる。最初の10手番かそこら(マスターやグランドマスターにとっては20手番か30手番)が過ぎて序盤が終わってしまえば、中盤のゲームには、膨大な数の配列と位置関係が存在し、同じゲームは2つとないものとなる。似たようなパターンだってあるかもしれないが、位置関係における非常に僅かな差異ですら、最善手が大きく変わることとなる。もし、「チェス」のゲーム中盤において膨大な数の変動性がなかったら、「チェス」は、絶対に古典的傑作になり得なかっただろうと思う。そうだったら、「チェス」は、"解析されて"、忘れ去られたことだろう。

この点において、あらゆるゲームが成功しているとは限らない。ランダム性のないゲームは、常に、低い変動性や、ゲームをつまらなくさせる決まりきってしまった"同じ流れ(sameness)"のリスクにさらされてしまう。

変動性はリプレイ性を高める

実際、ほとんどのゲームにおいて、私が変動性と呼んでいる要素である、適切な程度の(a healthy degree of)ランダム性が、ゲームを楽しくさせてリプレイされやすくするために必要となっている。例えば、カードゲームにおいて、このことは当然の話なのだ。カードを用いたいかなるゲームもランダムな順序でカードが現れるのはわかっていて、みんなこのことを受け入れている。トリックテイキング、デックビルド、タブロービルドであったとしても、毎回全く同じ順序で現れたり配られたりするようなカードゲームを想像できるだろうか? みんなすぐに飽きて、そのゲームをやめてしまうだろう。ランダムなカードの順序というのは、変動性を高めるランダム性の形式として受け入れられたものなのだ。

Mark Rosewater(※「マジック:ザ・ギャザリング」を製作するWizards of the Coastの開発部主席デザイナー)が書いた、「マジック:ザ・ギャザリング」におけるランダム性に関する素晴らしい記事(※おそらくこの記事と思われる。)では、この点に関して詳細に記載されており、ランダムなカードドローは、カードゲームにおける"許容できる"ランダム性の形式だと考えられているとされる。彼の記事は、プレイヤーが許容できると判断するランダム性を作り出す方法の要点も示しており、私が着目したい形式は、プレイヤーが対処できるランダム性というところだ。多くのゲーマーは、偶然のように(arbitrary)みえたり、対処できず何もすることがないようなランダム性を嫌う。カードゲームにおいては、ランダムな手札が配られる。ある手札は他の手札よりも優れているかもしれないが、良いゲームにおいては、プレイヤーに勝つ機会をもたらすような興味深い方法で(※あんまり良くない)手札を使うことがある。

クレジット: Steph Hodge

さて、「マルコポーロの旅路」、変動性に関する考え、プレイヤーの選択を増加させるランダム性について話を戻そう。この長ったらしい話の初めのラクダは、5つのワーカーとなるダイスのランダムな出目に対処するために多数の選択肢をもたらす。このことは、ランダムなカードドローに相当するものだ。低い出目では、より多くのラクダ(もしくはお金)をもたらし、それを使えば、ダイスを振り直したり、出目を上げ下げしたり、完全に1個のダイスを買ったりすることができる。5つのダイスと、そのダイスを追加したり変更したりする主要なリソースがあれば、それ自体が多数の選択肢を生み出す。

しかし、「マルコポーロの旅路」における変動性は、サイコロを振るとか、ラクダを使って出目を操作するとかを遥かに超えるものとなっている。このゲームにおいて、各プレイヤーは、極めて強力なプレイヤー固有能力を備えており、ゲームのプレイ自体を根本的に変更するものもある。例えば、ある能力では、プレイヤーは単純に出目を無視して、プレイヤーが望むように出目を設定することができる。別の能力では、他のプレイヤーのダイスが置かれていることで、ワーカーの配置が妨げられている場合に、それを無視して置くことができる。また別の能力は、他のプレイヤーがリソースを得れば、自分も無料でリソースを得ることができる。

こういった能力の多くによって、あるキャラクターの能力を用いてプレイすることが、別のキャラクターの能力を用いてプレイする時とは全く新しいゲーム体験となる。そういう意味での変動性を高める一方で、ダイスの出目のランダム性を軽減する効果をもつことに留意してほしい。

このゲームには、プレイヤー固有能力を凌駕する他のモジュラー要素が数多くある。プレイヤーは、ゲーム開始時に4つの秘匿された目的の中から2つを選ぶ。ワーカーが置かれる場所と収入を得る場所がボード上にランダムに配置される。ワーカーが置かれる場所についてみると、各ゲームでセットされる場所よりも数倍多いワーカーの配置場所が存在する。つまり、各ゲームで使用できる場所には膨大ともいえる変動性(また、この言葉だ)があり、こういった場所に到達する進路(accessibility)にも膨大な変動性がある。

そもそも、なんでランダム性を取り入れるの?

ここにきて自然と湧き上がってくる当然の疑問に対処するために、「マルコポーロの旅路」における変動性の議論にちゃちゃを入れようと思う。その疑問というのは、「チェス」のようなゲームが中盤においてほぼ無限ともいえる変動性を生み出し得るのであれば、そもそもランダム性を取り入れるのはなぜなのだろうか? ランダム性を投げ込む必要があるってことは、デザイン面での欠点があることの顕れではないのか?

この疑問に対する1つの簡単な答えは、ほとんどのゲームでは、「チェス」にみられるような小さいプレイスペース内に、膨大な数の効果的な変動性が生み出されることが、単にないということだ。「チェス」とは異なるほとんどのゲームは、似ていてわずかに違う配置だけでは、単調に感じられてしまう。

さらに、一般的に"運要素のない"とされるゲームですら、明らかに偶然の要素があるゲームよりも強い形でランダムとなる可能性がある。例えば、「アグリコラ」をみてみる。プレイヤーは、カードドローのランダム性と建物が現れる際のわずかな多様性を受け入れているものの、ほとんどのプレイヤーは、このゲームのその他の点については偶然性がないと基本的に考えているだろう。

しかし、実際問題として、これは当てはまらない。他のプレイヤーの動きは、あるときには技量に基づいた形で、またあるときには基本的にランダム性に基づいた形で、このゲームをプレイするプレイヤーの力量に劇的な影響を与え得る。2人プレイの「アグリコラ」において、望むものを邪魔してくるプレイヤーは、うまくプレイしていることになる。4人プレイにおいては、おそらくはっきりと邪魔してくるわけではなく、それぞれのプレイヤーが成功するために必要な行為をしているだけなのだろう。

ほかのプレイヤーの動きが、あるプレイヤーの戦略を激しく妨害する結果をもたらすが、別のプレイヤーの戦略にはほとんど影響を与えないということが、非常に高い確率で起こる。このことが特に起こるのは、あるプレイヤーのドラフトするカードが、他の2人のプレイヤーのドラフトするカードと大きく異なっており、その2人のプレイヤーが同じ道を進んでいて、お互いに大きく邪魔をしてしまうことで、別のプレイヤーが勝利してしまうといったことだ。

邪魔する行為の多くは技量かもしれないし、偶然の出来事なのかもしれない。これは多人数のプレイヤーがいることの影響である。グループが、そうする意図がないにもかかわらず、あるプレイヤーよりも別のプレイヤーを効果的に邪魔してしまうかもしれないということだ。

ここでの重要な点は、「アグリコラ」をディスることにあるわけではない。何とかして運要素を取り去ろうとしたゲームこそが最高のユーロゲームで、かつ、最高のゲームだと考える人たちに異議を唱えることだ。そんなの徒労(a fool's errand)だよね。

The Dice Tower(※海外ボードゲームサイトの最大手の一つ)のTom Vasel(※The Dice Towerの運営者の一人で、有名なレビュアー)は、「プエルトリコ」のトーナメントに参加した際の笑える話を語っていた。Tomが最初の手番を行ったら、卓のメンバー全員から不満の声が上がった。Tomがその理由を尋ねると、プレイヤーの1人から、Tomのプレイが最適ではなく、あるプレイヤーに多大な優位性を与えたと教えられたそうだ。思ったとおり、その優位になったプレイヤーが、そのままゲームに勝利した。この場合、Tom Vaselが幸運をもたらしたわけだ。

もちろん、運要素が、思慮に富んだゲーマーを正当に悩ませる多くのゲームがある。こういった場合、ランダム性は、ゲームにおける興味深い意思決定を行う回数を減らしてしまっている。それは、大抵の場合、ランダム性を十分に取り扱ったり緩和したりすることができないことを意味する。

ゲームには運要素がどれくらい多くあるのかを投げかけるのではなく、"このゲームにおける運要素は、興味深い意思決定を多く生み出しているか、少なくしているか? このゲームにおける運要素は、その(※選択肢の)可能性を増加させているか、減少させているか?"と投げかけるべきだ。

さあ、「マルコポーロの旅路」と、ゲームの可能性を広げる運、つまり変動性の考えに戻ろう。「マルコポーロの旅路」でこれを実現するために行った1つの方策は、辛く、ひどい苦しみを味わう選択をもたらすユニークな形式の弱いブロック(soft blocking)である。強いブロックを伴うワーカープレイスメントゲームにおいて、もし、自分の場所が取られてしまったら、単に運がなくて残念だったってことで、それで終わり。プレイヤーは、次の最善の場所に移動するわけだ。しかし、「マルコポーロの旅路」では、プレイヤーは、ほかのプレイヤーが求めた(claimed, ※選択した)場所に行くことができるのが通常だ。そうするためには、金銭的なペナルティを支払う必要があるというだけだ。

こういった点が、このゲームの最も素晴らしくてひどい苦しみを覚える意思決定の一翼となっている。マジで欲しいアクションのために追加の支払をするか、それとも、ペナルティを課されることなく劣ったアクションを取るのか? このゲームでは、通常、お金が非常に厳しいので、そのペナルティは現実のものとして痛みを伴う。

追加選択をもたらす特徴としての旅

クレジット: Zoltan Geffert

この種の選択は、旅に関する意思決定の場面で最も多く現れる。これは、このゲームにおける変動性に関する最後の大きな特徴であり、もちろんこのゲームのテーマを実現させるメカニックであることは言うまでもない。旅は、このゲームをプレイする上で必要不可欠なものだ。異なる都市を旅することで勝利点が得られるという秘密の目的や、北京に到達することでで勝利点が得られる公開のレースがあるからというだけでなく、異なる都市に到達することで各手番でリソース収入が得られたり、その都市を通過したプレイヤーにのみ利用可能な特別のワーカーを置く場所が得られたりするからだ。こういった理由から、旅なしでこのゲームを勝とうとしても、一般的には、経験豊富なプレイヤーを前にしたら不可能となる。

同時に、旅は、後手になると(in the rear)痛手となるのが通常だ。主な旅の方法として、1ラウンドで5つのダイスのうち2つを用い、大量のお金と、同じように大量のラクダを普通は消費することとなる。もし、他のプレイヤーがそのラウンドで既に旅をしていたら、同じようにペナルティを支払わないといけないので、更に高いコストとなる。

旅にはもう1つの利点がある。1番最後に旅をしたプレイヤーにファーストプレイヤートークンが渡される。それゆえ、手番順が極めて重要であって、次の手番で最初に動きたい場合には、手番の最後に旅をすることになる。他方、ラウンドの最初に旅をして、自分の前に他のプレイヤーが旅をしてしまうことで発生する回避不能な旅のペナルティを支払わないようにしたいと思うことが多い。旅することは単に進路の問題というわけではなく、いつ旅をするかが非常に重大であることから選択の幅は広がっている。最も安価に旅をしたいと思うのか、将来の手番に備えて綿密に計画を立てたいか、旅をする前にラクダを蓄えておくかなどなど。旅のアクションを行うタイミングは、決して簡単なことになり得ない。

旅のようなアクションのタイミング以外にも、単に5つのダイスを使うだけでも、(変動性を高める)選択肢が広がる。通常のワーカープレイスメントゲームでは、プレイヤーは単純にどこにワーカーを置くのかだけを決めている。このゲームのようなダイスプレイスメントゲームでは、単に置く場所だけでなく、どのくらいの出目で置くのかも決めている。ダイスは、特定のアクションの場所からどのくらいの量を得られるかに影響することから、最初のアクションの開始時に、各場所に対して5つの異なる選択肢があることになる。場合によっては、二、三個のダイスが必要となる場所が存在することから、もっと選択肢が生まれる場合もある。

選択肢を一層難しくするのは、あるプレイヤーが取ろうと思っていたアクションを他のプレイヤーが既に選択しており、あるプレイヤーが支払うこととなるペナルティーが、ダイスの出目に比例することだ。つまり、(※出目が高いことで)良いアクションであればあるほど、ペナルティーは増大してしまう。

これら全てを念頭に置くと、手番の開始時には、プレイヤーがボード上の新しい場所に十分に訪れることができるとすると、選択でき得るアクションはまさに100個にも及ぶ。これは、どんな場所にもどんな種類のダイスを置くことができるといった自由度があまりない、「Kingsburg」や「エイリアン・フロンティア」のような他のダイスプレイスメントゲームとの顕著な違いである。それにもかかわらず、実のところ、アクションポイント(AP)は、大多数のワーカープレイスメントゲームほど悪いものでもない。訪れることができる街が100個もあれば、ちょっとギョッとするだろう。しかし、10個くらいの場所があって、そこへのダイスの置き方が5から10までの選択肢しかなければ、かなり気楽に感じることができる。

プレイヤーは、何が欲しいか、それをどれくらい欲しいかを決断する必要があるだけだ。ダイスが広げる意思決定の空間は、リソースの優先順位をつけることだ。つまり、単なる通常のワーカープレイスメントにおける、どのリソースを最初に掌握すべきかという優先づけではない。ダイスの出目がどのくらい高くて、それぞれの場所からどれだけのものを必要とするかに関するものだ。このことは、単純に大きな決断を下すこととして、脳裏によぎることとなる。

こいつは非常に重要なことだ。というのも、もし、選択肢を増やすことで、ゲームが単純に良くなっていくのであれば、みんなプレイヤーに100枚の異なるカードを選択させたり、100個の異なる都市を訪れさせたりすればいいわけだ。しかし、これでは、全くうまく機能しないだろうし、プレイ体験を向上させることも一切ない。変動性と選択は、人間の思考(the human mind, ※脳の処理容量)的に、道筋を比較的手早く選択させることができるようにしつつ、増加させる必要がある。

「マルコポーロの旅路」における変動性を増加させる最後の方策は、このゲームを検討するに当たって見逃されることが多い、プレイヤーが達成する契約にある。一見すると、契約は、多くのユーロゲームにおいてよくある商品を勝利点に変換する課題のように思える。しかし、そのほとんど全ての契約において、勝利点以外の有益な報酬が用意されている。ボード上を追加で動くことができる能力、手番で振ることができる追加のダイス、ラクダが増える、お金が増えるなどなど。

つきつめると、契約によって、プレイヤーはボード上の街から集めたリソースをもってしても解決できないかもしれない問題を解決できるようになる。例えば、プレイヤーはある場所に到達する必要があるかもしれないが、どんなに頑張ってもその場所には及ばないとする。しかし、適切な契約を得ておいて、その契約を達成できれば、足りない部分を補えるかもしれない。

契約における次善の策や、ボード上に広がっている多くのワーカーを配置する場所によって、プレイヤーは、主な計画が首尾よく進まなかった場合に、代替の計画や解決策を見つけることができるようになる。「マルコポーロの旅路」において最も満足感のあることは、計画を考え出し、誰にも邪魔されず、その計画を達成する場合にはない。そいつは、他のプレイヤーのアクションによって自分の計画がくじかれて、望むものが手に入る独創的な他のルートを構築した場合にこそある。それに、ゲームは厳しいけれども、旅という選択肢、他のプレイヤーが既に到達した場所に行くために(※ペナルティを)支払う技量、契約の報酬、そして最も重要である素晴らしいラクダを使用したダイスの操作と追加をによって、別の計画(これも変動性だ!)をうまく成功させることができる。

そして、最初の話に戻る。ダイスを振り直し、出目を上げ下げし、新しいダイスを購入できることによって、プレイヤーは、不可能に見えるような課題を達成する方策に関して、あらゆる種類の独自の解決策を考え出すことができるようになる。そして、このような形で、このゲームは、プレイ時にテーマと少しつながることになる。不可能なことを可能にすることは、実際のマルコポーロの物語の核心部分なわけだ!

読んでくれて感謝! 下のコメント欄でやいのやいの言ってくれ。

Tony

以上

※本記事に関連するAnthony Faber氏の記事は、以下のものがある。

※Anthony Faber氏の記事は、ほかに以下のものがある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?