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ゲームをリプレイしたくなる要素とは何か。それがないと問題なのか?(What makes a game replayable, and does it matter if it's not?)

本記事は、Anthony Faber氏が2021年4月23日に投稿した「What makes a game replayable, and does it matter if it's not?」の翻訳である。記事のタイトルは直訳調にしてある。

やや古い記事だが歯ごたえのある話だ。時間も取れないことに加えて、翻訳にもかなり苦労した(読みにくさを感じるのは訳者の力不足である。)。ボードゲームのリプレイ性について総論的に論じたものであり、意義があると思われる。

元記事は以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた。

もし、あまりの文章量に目がかすんでしまったら、ポッドキャスト「Two Wood for Wheat」で、この議論を聞くことができる。そこでは、「Overboss: A Boss Monster Adventure」のレビューも聞くことができる。

一見したところ、ボードゲームでは、リプレイ性が過大評価されているのかもしれない。その理由は、俺らみたいな筋金入りゲーマーの所有するゲームが多すぎて頻繁に遊べてないからではない。ほとんどの人にとって、"リプレイ性"というのは、そのゲームがどれほど好きなのかを表す言い回しに過ぎないということのようだ。気に入ったゲームであれば、もう一度遊ぶし、気に入らなければ、もう遊ぼうとは思わない。

しかし、立ち止まって考えると(on second glance)、リプレイ性は極めて重要なのかもしれない。みんながゲームを好きな理由の多くは、何度も何度もプレイしたいからなのかもしれない。別の言い方をすると、数回プレイするだけで十分なゲームがたくさんあるけど、50回以上プレイして楽しいゲームは一握りしかない。そこで、ゲームをリプレイしたくなる重要な要素とは何かについて探っていこうと思う。全てのゲームにおいてリプレイする必要があるわけではないが、みんなが好きなゲームをみていけば、好きな理由を検討するための手がかり(an access into looking at)になる。では、みていこう。

1. 自動化されていない決断

クレジット: Anthony Faber

以下に挙げるゲームのリプレイ性を高める他の要素はそれぞれ有用なものだが、必要不可欠というわけではない。この要素だけは交渉の余地がない(※必要不可欠な要素だ。)。そう、全てのゲームがひどく苦しい(excruciating)決断を迫られる深い戦略ゲームである必要はない。私は、フィラー(※空き時間を埋める(fill)ぐらいの極めて短時間で遊べるゲーム。参照)のパーティーゲームも普通の人と同じように好きだ。けど、ゲームの中に本当の決断がなければならないし、その決断は面白くて、少なくとも時として自明でわかりきった決断ではない必要がある。そうじゃないと、その体験を繰り返したいとは思わなくなってしまう。

面白い決断というのは、「コードネーム」のような軽いパーティーゲームでも登場することがある。「コードネーム」では、素晴らしいヒントをひねり出す過程がやりがいのある(challenging)ものとなる。「バニーキングダム」のような単純なドラフトゲームでも面白い決断がもたらされる。このゲームでは、自分のエンジンに最適な(great)建物カード、重要なゲーム終了時の得点カード、自分にとって理想的な(perfect)カードがあるが、そのうち2つしか取ることができない。「キャリコ」のようなパズルゲームにもあって、行動を移さずに理想的なタイルを手に入れるためにしゃがむか(hold out for)、目標の1つを達成して別の目標を諦めることで損を少なくするかの狭間で決断することになる。「Shakespeare」のような戦略的ゲームでもみられる。次の手番で何アクションを取るか決断して最小のアクション数を入札したら、ボーナス点と初手プレイヤーとなる権利を得られる。物語ベースのゲームでは、自分の決断によって大事にしていたキャラクターの運命が左右されることになる。

選択が複雑だとか、数学的だとか、感情的だとかどうかは重要ではない。しかし、面白い選択が何かしら伴わないといけない。それに、それを生み出す状況はゲームごとに全く同じはずがない。そうしないと、たとえ、その選択に出会うのが最初でなかったとしても、その選択は簡単に気づけてしまうものになるだろう。

2. 変化するセットアップ

クレジット: Anthony Faber

リプレイ性を高める重要な要素(a key driver)としての変化するセットアップに関して、ボードゲームの専門家様(cognoscenti)の間では非難を浴びせることが通好みの言いぶりということになっている(become a thing)。"つまるところ"、奴らの言い分というのは、"「チェス」は、今まで創作されたゲームの中でおそらく最もリプレイ性のあるゲームと考えられている。そしたら、毎回同じように配置しておけばいいのだ。"というものだ(これが論点のすり替えだと思われないように言っておくと、これは著名なボードゲーム界隈の人の発言の直接の引用からかけ離れていないし、他のデザイナーやメディア界隈の人から同じように支持されたり、賛同を得られたりしている。)。

これはいい加減な考えだ。まず、世界のトップグランドマスター(grandmasters, ※チェスの最高級選手のこと)たちによれば、(少なくとも、しばらくの間は)お決まりの序盤の動きが20個取り除かれることになるので、駒の初期配置が変化すれば、「チェス」はより良いゲームになるだろうとのことだ。だが、二つ目として、人類の歴史の中で最も評価されている2つのゲームのうちの1つを取り上げて自分の基準とするのは不公平だろう。

さて、要点は把握した。変化するセットアップが全てではない。コアとなるゲームプレイのループ(Your core gameplay loop)は、最初に駒をよく混ぜ合わせることよりも、むしろ何度も何度もプレイしたいと思うかどうかのほうと関係している。これは当然の話だ。ただ、全てではないということは、何も関係がないということではない。それに、変化するセットアップは実装するのが非常に容易く、そうしない理由はほとんどない。

変化するセットアップというのは、出てくるカードが変化したり、マップ上の異なる場所に異なる資源が置かれたりすることだけではない。プレイヤーの固有能力だったり、異なるシナリオだったり、利用可能なアクション、ルール、勝利条件の選択がゲームごとに異なるようなものでも、変化するセットアップに含まれ得る。

ゲームの中には、プレイヤーに全部似たり寄ったりの大量のコンテンツをぶちこむだけの、ひどい実装をしているものもある。プレイヤーが3つ目のシナリオをしてシステムに飽きてしまったら、100本のシナリオがあってもリプレイ性は向上しない。それに、1%ずつ能力を変えただけの固有能力は、卑劣で効果がないだけだ。

しかし、ゲームの中には見事に実装したものもある。「マルコポーロの旅路」と「マルコポーロ :大いなる帰還」は、ユーロゲームにおける変化するセットアップの金字塔的な作品(gold standard)かもしれない。非常に強力で様相が異なるプレイヤーの固有能力、ゲームごとに違う場所に配置される異なるリソースとボーナス、契約やアクションでさえも時期や場所が異なって出現する。そして、プレイヤーは、ゲーム開始時に異なる秘密の目標を与えられる。これら全てが意味することは、このリソース変換パズルが毎回同じになることはないということだ。さらに、変化するセットアップには、このほかにリプレイ性を促進する別の要素がある(後述する。)。

私は、「タイニータウン」を100回以上プレイしたことがある。なぜかというと、このゲームは、少なくとも使われるカードの80%がゲームごとに異なるタブロービルドゲームであるからだ。それに、単純に少し違うわけではない。利用可能な建物プールは、どのように自分が得点したかや、どのようにゲーム全体がプレイされたかによって完全に変化する。軽い空間(spatial)ゲームのほとんどが戦術的であるのに対して、「タイニータウン」は、その変化するセットアップを利用して高い戦略性を持ったゲームとなっている。初期配置の利用可能な建物の評価が甘かったとか、うまく機能しない計画を選んでしまったとかのせいで負けることもあり得る。単純な30分のパズルとしては深いゲームだが、その奥深さの多くはセットアップにある。

変化するセットアップは、ストーリー要素を基本とするゲームにおいて、異なるシナリオという形を取る。そういったゲームは、同じストーリー要素のせいでリプレイ性が低いという問題が生ずることが多いので、箱の中に多くのシナリオを含めることで、この問題を避けようとする。もちろん、繰り返しになるが、意味のある意思決定や変化に富んだアーク(arc, ※参照)が伴わなければ、誰もプレイしたことがないような多くのコンテンツを詰め込んだKickstarter的なゲームに成り果てることになる。

3.ランダム性

クレジット: Anthony Faber

適切に調整された量(The right dollop)のランダム性は、ゲームにリプレイ性を加える重大な要素となり得る。ほらみろ、「チェス」や「囲碁」愛好者ども!

モジュラー式のセットアップが多様性をもたらすのと同じように、古き良き運という方法も多様性をもたらす。ダイスだろうが、カード引き運だろうが、使用しているほかのどんな方法だろうが、そのことは変わらない。そう、またしても「チェス」は、この原則の根拠とはならない例外なわけだ。しかし、バチバチに争うアブストラクトゲーム(an abstract conflict game)であれ、ユーロゲームであれ、どんなゲームであっても、ある種のランダム性を導入しないまま、プレイヤーが毎回のゲームで同じアクションを選択しないようにすると、ほとんどデザインを完璧に仕上げなければならないことになる。そして、毎回プレイヤーが同じアクションを行うことは、当然、ゲームにリプレイ性を感じなくなる大きな理由となる。

よくよく考えてみると、ほとんど全てのゲームにおいてある種のランダム性がある。ランダム性のないユーロゲームを指摘してみてほしい。例えば、選び取るためのランダムプールのないドラフトなんてものはない。構築すべきカードやエンジンを形作るコンポーネントプールのないタブロービルドやエンジンビルドなんてものはない。まさしく、全く同じカードプールとかが毎回のゲームで示されるゲームもあるが、そういったゲームは決まり切ったプレイ感を伴うことに悩んでしまう。

しかし、どのようなランダム性がゲームの寿命(the longevity)を向上させるのか明確ではないことから、何かしらのランダム性が多様さに資すると断言するには至らない。私は、最高のランダム性というのは、単にメカニズムの影響により生まれた偶然の産物(happenstance)であるよりも、デザイナーが意識的に取り入れるものだと考える傾向にある。例えば、ダイスのワーカープレイスメントやダイスドラフトを用いたゲームは、気まぐれにダイスを振らせてるわけではない。インプットをどのように混ぜ合わせれば(how mixed up)、多様な体験となるのかを慎重に考慮しているわけだ。

「マルコポーロの旅路」が変化するセットアップに関して良い仕上がり(doing a good job)となっているとしたら、各ラウンドにおいて役に立たない物から役に立つ物をつくることができる(makes you produce lemonade out of the lemons you are given)ダイスプールを搭載したことに関してはそれ以上に素晴らしい仕上がり(doing a great job)となっている。高い目のダイスは強力なアクションをもたらすかもしれないが、他のプレイヤーが既にたどり着いた場所に行かなければならないとすると、コストが増えてしまう。他方、低い目のダイスも、強力な代償(compensation)ボーナスを得ることができる。プレイヤーはサイコロの出目次第で、目標に到達することを遅らせたり、他のプレイヤーが特定の組合せのダイスを振ったせいで特定のアクションを早めに取らないといけないかもしれない。このゲームは、標準的なワーカープレイスメントゲームよりも随分とわかりにくくできていて、より奥深い(richer)ゲームとなっている。

オーディンの祝祭」において、狩猟や略奪のダイスに不満を言う人がいる。なぜ、重いユーロゲームにおいて、ワーカーを配置してアクションをする際に、こんなにも強いランダム性(this heavy dose of randomness)があるというのだろうか。プレイヤーをおちょくってるわけではないし、実のところ、それらのアクションのテーマ的な不確実性に関連するわけでもない。それは、素直なワーカープレイスメントのボードを一層解析し難くするためにある。仮に、一定のレベルで狩猟や略奪をするのであれば、そのアクションの相対的な強さを分析するのは相当簡単になるだろう。

同様に、「Blood Bowl」というゲームで何百ものダイスを振ることから、経験の少ないプレイヤーの中にはこのゲームがビールとプレッツェル用の運ゲーム(a beer and pretzels luckfest, ※beer and pretzelsとは、戦略面やルール面において単純だが面白いゲームであって、短時間で終わり多人数で遊ぶことを想定されたゲームのことをいう。)だと思い込んでしまう人もいる。しかし、それどころか、何百ものダイスは、サッカー形式のゲームが変化がなく予測可能になることを防いでくれる。このゲームの戦略は、リスクを最小限に抑えながらも最も強力なアクションを選択して運要素の軽減(mitigation)し、リスクを比べさせて妥協すること(make tradeoffs)をプレイヤーに強いることにある。結果として、今までプレイしてきたダイスのない大半のユーロゲームよりも、ゲームの腕前が求められることになる。

4.多様で魅力的なゲームのアーク

ゲームに多様で魅力的な(compelling)アーク(arc, ※アークの詳細は別記事を参照されたい。)を伴うために、必ずしも勝利への道筋が複数あることを要するわけではない。もちろん、そのようなアークが生じ得る方法の1つであることは間違いないけれども。「チェス」では、ゲームデザイン的には(technically)勝利するための道筋は1つ、つまりチェックメイトだ。しかし、そこに至るまでの道筋は極めて多様なものとなり得る。序盤の攻撃、位置的に有利な状況を導く複雑な中盤のやりとり、上手くプレーされる終盤によってゲームの勝者となる可能性がある。そして、一方のプレイヤーが攻撃し、そして他方のプレイヤーが攻撃したり、ゲームの優位性とある種の展開があちこちで入れ替わったりする(swinging back and forth)ことに伴って、アークが至るところに存在する。

別の言い方をすれば、たとえ、そこ(※チェックメイト)に至る決断が多少なりとも異なっていたとしても、ゲームは、毎回、全く同じ物語を紡ぐべきではないということだ(例外は後述する。)。

5.インタラクション

クレジット: Anthony Faber

みんなの中には、この項目がリストの最上部に出てくるだろうと思っていたかもしれない。だって、他のプレイヤーの予想できないアクションこそが、ゲームシステムによって作り出される可能性を遥かに凌駕する数のユニークなゲームの結果を生み出すと思うからね。ただ、こういったことにもかかわらず、補足説明をしたいと思う。リプレイ性を担保するために、ゲームに多くのインタラクションがある必要はないということだ。私が多人数ソリティアのユーロゲームが好きであるということで、もう答えは十分かな(thank you very much)。インタラクションはリプレイ性のための1つの方策だが、このリストにある他の要素を取り入れている限り、唯一のものというわけじゃない。

インタラクションがリプレイ性を生み出すという話は、物事を単純化しすぎている。例えば、攻撃カードを用いて内々に(in the privates)誰かを攻撃するといった、だらけたインタラクションはゲームの可能性を全く広げるものではない。単につまらなく感じさせるだけだ。

私にとって、ゲーム中の様々なインタラクションに基づいてリプレイ性を生み出している象徴的なゲーム(My poster child for a game)は、「ライジングサン」だ。まず、戦闘パート前の段階で(pre-combat part of the combat)ボーナスが与えられるという形式的な(formal)利点がある。誰と同盟を結びたい(allied with)かを決断することは、想定される最高の利益を与えてくれるか確認するという観点から極めて重要となる。実際、「ライジングサン」で勝者となる技術は、自分と同盟を組んだ相手を出し抜くことだ。自分の敵を邪魔するアクションを選択するなんてとても簡単だ。しかし、このゲームの肝(the art)は、同盟を組んだプレイヤーと自分の2人で敵を倒して、最後には自分だけが実質的な勝者となるように、同盟を組んだプレイヤーをしくじらせる(messing up)ことにある。しくじらせることは、必ずしも裏切ることを意味しない。むしろ、自分がとったアクションにより同盟を組んだプレイヤーに与えるボーナスが、同盟を組んだプレイヤーのとるアクションから自分が得られるボーナスよりも少なくなるということに近い。

同盟が選択された後は、「プエルトリコ」式でアクションが行われていく。全てのプレイヤーが選択されたアクションを行うが、手番だったプレイヤー(※アクションを選択したプレイヤー)とそのプレイヤーと同盟を組んだプレイヤーだけが優れた効果のアクションを行うことができる。自分が行うもの(※アクション)だけを見ていればいいわけじゃない。他のプレイヤーに与えるアクションを制限したり、他のプレイヤーが選択したアクションから多くを得られるような立ち位置に自分を置いたりしなければならない。

それに、神々がいる。プレイヤーは、神職(をスペースに置いてエリアコントロール式に占領することで、非常に重要となる恩恵やボーナスのために競い合うことになる。その後、戦闘を準備するための移動があり、更に、全ての戦闘ごとに個別のブラインドオークションが伴う戦闘が生じる。インタラクションの議論とリプレイ性の観点から、このような戦闘を興味深くさせているのは、各戦闘の敗者(たち)が、勝者が戦闘に費やした金銭を手に入れる方法だ。戦闘に勝ったが、間違ったプレイヤーに多額の金銭を渡してしまい自滅したり、金銭面ではなく、もし、オークションの適切な部分で勝利しておけば、兵を失うことで勝利点や優位性を得るという選択肢があったことにより、適切な(right)戦闘に負けることでゲームに勝ってしまったりする。

これらの様々なゲームの要素のそれぞれにおけるインタラクションはとても様相が異なっており、徹底的な破壊を試みるものから半協力的なものまで分類することができる。プレイヤーが選択できる様々な固有能力を持った様々な氏族を組み合わせることで、プレイごとに極めて異なるプレイ感をゲームにもたらすことになる。

6.組み合わされたメカニズム

ゲームに2つ以上の大きなメカニズムが搭載されて、それがうまく統合されていると、単に大量のコンテンツをぶち込むことでは達成できない大きさにまでゲームの可能性や幅が拡大する。私が特に好きなのは、古典的なユーロゲームのメカニズムに巨大な空間パズルが組み合わされた場合だ。

「オーディンの祝祭」は、そのわかりやすい例となる。最大級のワーカープレイスメントゲームに、最大級のポリオミノゲームが組み合わさって、最も現実性のある(possible)方法を用いて圧倒的と感じるゲームを作り出している。つまり、必要以上に難しすぎるわけではないが、完璧に計算するにはとても難しい具合というわけだ。

バラージ」は、多くのワーカープレイスメント形式に、大きなロンデルを組み合わせた上に、過酷な水流パズルを加えたゲームだ。同じように、あり得る可能性は、脳が沸騰するくらい難解だ(brain bending)。

マップが搭載されたデッキビルディングゲームは、ルールを覚えるコスト(the rules overhead)が低い場合であっても、この組み合わせを通して豊かで多様なゲームを生み出す(「Tyrants of the Underdark」、「トレインズ」、「Super Motherload」等を参照してほしい。)。ポリオミノとカードドラフトが組み合わさって、「アイル・オブ・キャッツ」で高く評価されたが、この組み合わせが幾分の成功を収めただけと思っている私は少数派だろう。

ほかの素晴らしくて圧巻なゲームの多くは、こういったメカニズムの融合(marriages)を通じて作り出される。一連の18xx系ゲーム(The 18xx phenomenon)は、単に株要素を足したルート構築ゲームの所産と言えるかもしれない。

全てが合わさるゲーム

この記事では、複数のこういった要素をうまく実装したゲームをいくつか言及したが、このウェブサイト(※BGGのこと)上で最も人気のある作品である「グルームヘイヴン」以上に、リプレイ性のあらゆる面において全面的に成功したものはない。

全ての個々の決断は、困難だが魅力的で、あらゆる方向に悩みを生じさせる(pulls you in multiple directions)。自分がプレイした2つの異なるカードにおいて優れた能力を求めつつ、適切なスピードをとり、自分のチームメイトと交流しながら、敵の行動に反撃していく。

カスタマイズする装備や能力とともに数十ものキャラクターの中からどのキャラクターをプレイするか、自分のキャラクターやチームメイトと一緒になって何百ものシナリオのうちどのシナリオをプレイするか等という関係の中で、セットアップは極めて多様性をもつ。

ランダム性の適切な量というのは存在する。プレイヤーの攻撃ダメージにどの程度の影響があるかではなく、敵がいつどのようなアクションを行うかやチームメイトのアクションが効果的なランダム性をもつかといった点にある。そういったゲームは、決して予測可能と感じることはない。

「グルームヘイヴン」のアークは、緊張感を完全なものとする。必死にシナリオを終わらせようとして、急速に失われるカードプールの中で戦利品を得ようとする。そのインタラクションは、チームメイトがまさに何をしようとしているのかを完全には把握できないまま協力するというものだ。そして、最終的には、ハンドマネジメントを用いた戦術的な(tactical)戦闘と物語と組み合わさったボードの配置とを掛け合わせたプレイ(the hybrid play)は、他のどのゲームでも味わうことがないものだ(isn't quite like anything)。

それに、私が「グルームヘイヴン」にリプレイ性があるという時は、単に理論的にリプレイ性があると言っているわけではない。私は、100回弱、基本ゲームのキャンペーンを遊んで、2回目のキャンペーンの途中までいったところだ。私は、「グルームヘイヴン スタートセット 獅子のあぎと」の20個以上の全シナリオを1週間ほどでクリアした。もし、Isaac Childresが「フロストヘイヴン」を届けてくれたら、疑問の余地なく、2021年のうちにそのキャンペーンをプレイするつもりだ。

けど、それって重要なことなの?

何百ものゲームを所有している人もいる世界において、数回以上同じゲームをプレイしたくなるかどうかは重要な問題なのだろうか。つまるところ、新しいゲームをいち早く購入するような人もいるわけでらリプレイ性は思っているよりも重要ではない。

どちらともいい難いところだ。リプレイ性が明らかに重要な場面がある。ゲームがつまらないコアループ(core gameplay loop)とわかりきった決断しかないと、初回からでさえあまり面白くないことからすると、リプレイ性のないゲームはそもそも面白くないというわけだ。

しかし、たくさんの物語がベースとなっていたり、テーマ性のあるゲームにおいては、そのリプレイ性が限定されていたとしても全く問題とはならない。「EXIT 脱出:ザ・ゲーム」や「アンロック!」をプレイしていたら、1回遊んで終わり(one and done)という仕様は、単にそういうゲームということになる。「Legacy of Dragonholt」には、あまりリプレイ性はないが、RPGのモジュールにもリプレイ性はない。全てのゲームにモジュールがある必要はなく、物語を1回語ることができればいいものもある。何かを失うことなく「アバブ&ビロウ」や「Near and Far」を永久に遊ぶことはできない。しかし、物語が全て終わる(stories repeated themselves)前に、それぞれのゲームから経験する20回以上のプレイは、価格に見合った価値があるものだ。

そして、戦略よりも体験を重視する多くのゲームについても同じことがいえる。変わった例を出すと、もうそんなに「ハッピーサーモン」をプレイすることはないが(特にこの感染症拡大下においては)、自分の考えていた以上に(more than my money's worth)、10人で(for #10, ※文意が取れなかったのでこのように訳している。)アホらしく楽しめたよ。

というわけで、パズルに飽き飽きしてきて他の要素に楽しみを覚える(invigorated)ことから、集中力が続く時間が上下するゲームに問題はない。全てのゲームについて、1000年間遊べるような単純明快で、Knizia的な気品を備えた(Knizian elegance)チェスのようなデザインである必要はない。ゲームが続く限り楽しめるものである限り、一時的にしか遊べないようなデザインでも本当に問題はない。

しかし、私の心の中で永遠と輝き続けていて、多くはこの記事で言及したような特別なゲームたちは、私がゲームをする理由の不可欠な要素となっている。一生涯にわたる友人のようなもので、素晴らしい存在であるとともに、自分が出会った全ての人や、好きになった人ですら、いつまでも自分の人生に居続けてくれるわけではないことを受け入れないといけない。

ここまで読んでいただけたのであれば、あなたにとって何がゲームのリプレイ性を高めているのか、そしてどいつがあなたの生涯の友人のようなゲームであり、その理由も教えてほしい。読んでくれてありがとう!

以上

※本記事と特に関連する記事として、以下のものがある。

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