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【名言と本の紹介と】『一億人の茶道教養講座』

 そして、なにより大切なことですが、人格教養の核は、教養の知識的な中身ではありません。知識的な中身は、結果的には「ある」ということになるのですが、知識的な中身を習得するための修練をした痕跡のようなものなのです。

岡本浩一『一億人の茶道教養講座』14-15頁(2013年、淡交社)


教養について

 年を重ねるにつれ教養のある人間になりたい、という想いが強まっている。教養のある人を尊敬するしもっと教養を身につけねば、とも思っている。

 しかし、いざ勉強してもすぐに忘れてしまう。

 というか、そもそも教養とは何か、どうしたら教養が身につくか、と問われると答えに窮する。よくよく考えると、お勉強ができる、というのともちょっと違う、気がする。


 気になった時はすぐにグーグル先生。goo辞書では以下のようにあった。

きょう-よう【教養】

1.     教え育てること。
2.     ㋐学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動
  ㋑社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。

goo辞書

 私がイメージしている教養は2の方。

 ふと疑問に思ったことを聞いたときに、「ああ、それは〇〇だよ」とバシッと答えてくれる人は教養があると思う。また「ああ、それはきっと〇〇じゃないかな」と推論できる人も「おおお」と思う。自分の持てる知識をフル稼働して、たとえ知らないことでも理解すること。それも高いレベルで。それが教養、と感じている。

 というわけで、教養に興味が湧いたときに手にしたのが以下の本である。

 

 そして最初に引用したのが、その教養(本書では人格教養と呼んでいる)に関する部分だ。もう少し詳しく周囲も含めて再掲する。

 教養が香るとしか表現できない素晴らしい人がときおりいるものです。また、尊敬する人から人格的な影響を受けることを「薫陶を受ける」と言いますね。香りを含んだ胎土を薫陶と言うのです。
 教養が香るとは、どのようなことでしょうか。
 教養は、外見的な美しさとは違います。リーダーシップとも違います。権威・権限とももちろん異なります。教養は、万人にわかるように光り輝いているものではありません。しかし、見える人には見えます。ただし、ここが難しいところで、見える人にははっきりと見えるが、見えない人には見えないのです。ある人に教養の香りがあるとわかるためには、そのわかるべき人は、それに先だって、教養の香りというものを知った人でなければならないのです。教養には、押し付ける要素がありません。それも、見えない人には見えないという性質に寄与しています。
   《中略》
 そして、なにより大切なことですが、人格教養の核は、教養の知識的な中身ではありません。知識的な中身は、結果的には「ある」ということになるのですが、知識的な中身を習得するための修練をした痕跡のようなものなのです。
 思うに、人は、教養を身につけるときに、知識そのもののほか、知識の構造や論理やコンセプトを習得するのです。その論理やコンセプトを習得した雰囲気が、その人の人格の周囲に漂うというのが、私が「人格教養」と呼ぼうとしているものの根幹です。そして、それが、「教養が人間の尊厳・価値そのものになる」ということがらの意味です。

14-15頁


 教養が香るような人間になりたいものである。いや、そもそも教養の香りをかぎ分ける能力が欲しいものである。

 そういえば、茶道を含め、柔道とか剣道など、「道」とつくものを学んだ人というのは、なんとなく只者ではない空気があるように思う。姿勢が良かったり、言葉遣いがしっかりしていたり、礼儀正しかったり、上下関係を重んじたり。

 強さを求めて武道に打ち込んでいたとしても、その道すがら自然とそういうものが身についていくのかもしれない。そしてそれが「知識的な中身を習得するための修練をした痕跡のようなもの」なのかな、と思う。

 

茶道について

 で、何故に茶道の本なのか。それは単純に私の父が本業の片手間に茶道の先生をしていて、物心ついたときから抹茶をよく飲んでいたからである。でも飲む専門で真面目にお茶の勉強をしたことは無かった。で、ちょっと興味が湧いたときに2年程度教室に通ってみたのだ。

 通ってみて茶道にハマる人が多いのがよく理解できた。茶道は沼だ。だだっ広く、底なしである。

 お茶をシャカシャカ泡立てて飲むんでしょ。そんなの1年も2年も学ばないと美味しくならないの?と茶道に1ミリも興味が無い方は思うだろう。

 だが「お茶を点てる」だけが茶道ではない。使う器や道具、花や掛け軸、果ては建築の知識まで学ぶことは多い。多くを知ることで、より良いお茶席を設けられるのだ。

 「……はぁ?」と思った方、以下に身近な例を挙げるのでぜひ想像してみてほしい。

 

「今度の週末、彼女の両親がこっちに来るらしくて、ウチに挨拶に来たいんだって。ちょっと立ち寄るだけだから気は使わないでくれってさ」

 と、息子から言われたとする。その彼女とは結婚を前提に付き合っているらしく、ご両親とはまだ会ったことが無い。息子の話では向こうのご両親は会社の経営者で、その娘さんも女子大卒の息子にはもったいないくらいのお嬢様、という場合。

「へー。じゃあコーヒーでも出そうか。淹れるの得意だし」と言って、そのままソファに寝そべり煎餅を齧りながらアマゾンプライムの続きを観ていられるだろうか。

 恐らく9割の方は飛び起きるだろう。8割の方は息子に「そんな大事な話、もっと早く言ってよ」と逆ギレし、7割の方は家の中をそわそわと歩き回る。

 とりあえず焙煎したての上質なコーヒー豆を新たに購入するだろう。コーヒーカップは普段使っていないお客様用の物を箱から取り出し洗っておく。そして、家に訊ねてこられた時を頭の中でシミュレーションし、庭に生えた雑草を抜き、玄関先を掃き清め、使ってない靴を片付け、飾り棚に花を飾る。廊下からリビングまで徹底して掃除し、私生活丸出しの物はすべて目に見えないところへ押しやり、新築時に飾っていたオブジェとかを引っ張り出して飾ってみる。もちろん気を使わないでくれ、と言われているのだ。いかにも普段からこうです、という雰囲気を出さなければならない。
 目に見えるところは綺麗に片付けたうえで、心に余裕ができたら、息子を通じて先方の好きなものを聞き出す。どうやらタイガースファンらしいといった情報があれば、さりげなく昔手に入れたサインボールを飾ったり、トラ柄の地元の羊羹を買ってきたりして話題になりそうなものを仕込んでいく。
 また来られる時間帯によっては、仕出し弁当かお寿司などを頼めるようあらかじめ下調べしたり、いつ帰省されるかによって日持ちする手土産を用意したり・・・・・・と、とにかく必死で考えると思う。

 どんなに美味しいコーヒーが淹れられたとしても、それだけではダメなのだ。

  お茶席も同じである。

 招待するお客様のために、朝イチで部屋を掃除し庭に打ち水をする。庭から花を選び、その花に合う花器に入れ、床の間に飾る。自分の思いを込めた掛け軸を飾り、季節に合わせ茶道具を準備し、夏なら涼やかに、冬なら温かく感じる工夫を細部に凝らし、心地良さを演出していく。

 そして招かれる側も、その心遣いを感じ取るのである。今日、私が訪ねてくることをこんなにも心待ちにしてくれていたのだとわかれば、そこでいただくお茶は一層美味しいし、何よりその空間が最高である。

 で、この心遣いをしたり、感じ取れたりするのが教養なのだろう。感じ取るためには、茶道具に対する知識や、掛け軸に書かれた意味(たいてい禅語だ)等を知っていなければいけない。教養人が教養人を招くお茶会は話題に事欠かず最高に楽しいだろう。

 本書に以下のような例があった。

 たとえば、宇治でみつけた茶入がありました。それにストレートに「宇治」とつけないで、「狭筵(さむしろ)に衣(ころも)かたしきこよひもや我をまつらむ宇治のはし姫」という『古今和歌集』の和歌にちなんで、「橋姫」と名付けます。これ、すごいですね。
 当時の教養人は、『古今和歌集』は必ず読んでいて、和歌の何百首かは諳(そら)んじています。そして、言われれば「ああ、あれか」とわかる状態になっています。つまり、「銘が橋姫です」と言われれば、「もしかして、宇治でみつけたのですか?」という会話ができるという想定になっているわけです。

151-152頁

 ここまでの域に達すればさぞや楽しいだろう。

 私のような教養の無い人間はポカンとして、なんだろうこの人たち、相手の頭の中を読めるとか特殊能力の持ち主なのかな、と端で聞きながら考えているだろう。うーん、会話に入りたい。

  

侘びについて

 日本文化、和の心、茶道、侘び寂び。これらの単語は関連して使われることが多い。だが侘び寂び、という言葉は説明しろと言われるとできない。はっきり言えるのは、わさびとは違うことくらいだ。

 かやぶき屋根の集落、ししおどし、使い込んだザル、雨により穿たれた石灯籠……。説明はできないが、こういったものから侘びを感じる気がする。

 これ、今でいうエモさじゃないだろうか。

 偉い先生方に怒られそうだが、現代で言う「この手びねりの茶碗、超エモくない? このちょうど指の跡みたいなラインがヤバいんすよ。」みたいな会話を江戸時代にもしていたのではないかと想像する。

 とまあ私の主観はともかく、本書では偉い人が以下のように語っている。

 まず、大づかみに言って、侘びとはどういうコンセプトでしょう。侘びのように、日本人にとっては、直感的・経験的にわかっていることがらをあらためて考えてみるようなとき、ひとつの知恵は、英語でどう説明するだろうと考えてみることです。
 裏千家十五代の鵬雲斎千玄室大宗匠は、しばしば、侘びの英訳語として、「imperfect beauty」「beauty of imperfection」とおっしゃいます。直訳すると、「不完全の美」「不完全ゆえの美」という意味になるのでしょうか。これはたいへんにわかりやすく、しかも含蓄のある表現です。ふつう、美は完全なものと考えられています。それがヨーロッパ的なコンセプトです。ところが、「不完全であるところに宿る美というものがあるのだ」というのが日本文化の偉大な発見であり、偉大な創造だったのです。

87-88頁


 不完全の美。これはすごく腑に落ちる。

 この世の中には、普通の工業製品とは別に、ハンドメイド作品の需要がある。工業製品の方が品質は一定で大量にできて、場合によっては精度も高い。それでもハンドメイド作品に需要があるのは、その作る過程にある思いや完璧ではないという意味で(不完全の美)一点ものという希少価値なのだろう。

 完全完璧なものは美しいと思うが、侘びを感じるのかと言われるとなんか違う気がする。ダヴィデ像とかバレエとか歌舞伎なんかも、うーん侘びかなぁと頭をひねる。

 でも、奈良原一高の写真はある意味完璧なのだけど、なんとなく侘びを感じる。と同時にエモい。日本人ではないけどソール・ライターは、世界共通のエモさ=侘びじゃなかろうか。


 そういえば、先日玄関先にスイカ模様のビーチボールが転がっていた。夏日の昼間、近所の家のものが風に吹かれて転がってきたのだろう。エモい。これ、侘び?

 と、エモさと侘びを探しながら本書を読み進めていたら、またも偉い人の侘び論が出てきた。

 宗旦居士は、利休直系の孫で、自らは仕官せず、「乞食(こつじき」宗旦」と呼ばれるほど侘び茶に徹して、利休の侘び茶を完成し、三人の息子達は仕官させ、いまの三千家分立のもとを作った人です。その宗旦の言葉がこれです。
「夫侘(それわび)とは、物不足(ものたらず)して一切我意(わがこころ)に任(まか)ぜず、磋砣(さだ)する意なり、(・・・中略)其(その)不自由なるも、不自由なりとおもふ念を生ぜず、不足(たらざる)も不足の念を起さず、不調(ととのわざる)も不調の念を抱(いだ)かぬを、侘なりと心得べきなり、其(その)不自由を不自由と思ひ、不足をも不足と愁(うれ)ひ、調はざるも調はざると訴へなば、是侘(これわび)に非(あら)ずして、實(まこと)の貧人(ひんじん)と言べし」

190-191頁


 無いものに文句を言わずに、その状況を許容する、ということだろうか。

 確かに、花をもらったけど花瓶が無いからとりあえずペットボトルに活けたら意外と良かったりとか、ゴミ箱を買うのをつい忘れてとりあえず不要な段ボールをゴミ箱にしていたら汚れたときそのまま捨てられるし案外良くてずっと段ボール生活だったりとか、無いなら無いでなんとかなる部分はある。すみません。宗旦の有難い言葉と私のズボラを混同してはいけない。

 完全な想像だが、ギリ雨風しのげるボロ屋で、ムシロひとつ、椀ひとつ、箸一膳で暮らしているようなイメージだろう。そのうえで当人に不平不満が無いのであれば、これが侘びだ。

 ……無理だ。端から見ればまごうことなき貧人だ。

 

日本文化を学ぶ

 宗旦レベルの侘びはなかなか体験し難いものの、日本人として日本文化を知っておくことは悪くない。

 本書を読んで初めて知ったが、何なら日本人よりも海外の方の方が日本文化に関心を持ち、詳しい人も多いようだ。

 Amazonで検索をすると「禅」の本は5000冊、アメリカのAmazonで「Zen Buddhism」は10000タイトルがヒットすると書いてあった。本書の出版が2013年だからちょうど10年前くらい。試しに検索してみる。

 アメリカのAmazonへの入り方はわからないので、とりあえず日本のAmazonの本と洋書の中で検索してみたところ、本の「禅」は8000件、洋書の「Zen Buddhism」は10000件。国内で手に入る洋書なので、確かに海外ではもっとあるのかもしれない。ついでに調べたところ、本の「侘び」は204件、洋書の「wabi」は841件。これもまた洋書の方が多い。


 茶道は総合芸術と言われる。お茶をシャカシャカ泡立てる技術だけでなく(なんなら泡立てない流派とかもある)、花や禅語、和歌、香、陶芸、工芸、造園、建築…とあらゆるものが関わる。

 好みもあるだろうが、同じ「道」を習得するなら、柔道や剣道、華道等よりオススメだ。何よりの利点は、お菓子を食べ、お茶が飲みながら学べるのだ。なかなか経験できないが、お茶会フルコースとなると懐石料理も出てくる。ご飯食べてお茶飲んで日本文化が学べる。最高かよ。もちろんこれは招客(招かれるお客さん)側。亭主(もてなす主人)側は地獄のように神経と体力をすり減らしもてなすわけだが。

 ちょっと茶道に興味が出てきた人や、実は小習いから始めてるんだよね、という方は是非本書をどうぞ。茶道の本は難しいものが多いなか、比較的わかりやすく、それでいてお道具の具体的な話まで書かれている。

 せっかく日本人に生まれたのだ。少しは日本文化を学び教養を身につけたいものである。

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