見出し画像

みんながそれぞれうっすら傷つき...

とても世話好きな友人がいる。彼女は高校の同級生で、その当時から世話好きで仲間内では有名だった。クラスの誰かが悪さをしたら母親みたいに諭し、病気で休んだら下校時にノートを持ってお見舞いに行く。年配の先生を心配だからと家まで送っていったり、テストで悪い点を取ったら一緒に勉強してくれる。書き出すとキリがないくらいに世話に没頭した人だった。私もその恩恵を受けたうちのひとりで、私はお昼ごはんは学食に行ったり、購買部でパンを買ったりして食べるのが習慣となっていたのだけど、彼女は毎日きっちりお弁当を作ってきていた。パンを食べたり学食でラーメンを食べたりしている私に「そんな栄養が偏るものばかり食べたら体に悪いよ」と言って自分のお弁当を分けてくれたりした。私は嬉しい反面どこかむず痒さを感じていた。高校2年の時、私の父が体調を崩して入院したことがあった。特に命に関わることでもなく「入院」というより「療養」という方がふさわしいくらいのものだったから誰にも知らせなかったのだけど、彼女はどこからかそれを聞きつけてメロンを持ってお見舞いに来てくれた。今も昔も立派に存在する箱に入ったあの贈答用のメロンだ。当時メロンを丸ごと買ったことがなかったのでどのくらいの値段がするのかわからなかったが、きっと高かったのだろうと思う。「手伝えることがあったらなんでも言ってね」と言って彼女は帰っていった。「誰に聞いたのだろう?」と言う疑問は拭いきれなかったが、好意で来てくれた彼女に問い詰めるのも悪い気がして何も言えなかった。クラスの中で「母親」あるいは「こうるさい姉」のような存在だったように思う。

そんな彼女とは高校を卒業してからはお互いに進む道が変わって、新しい住所を伝えることなく私が東京に拠点を移したこともありずっと音信不通になっていたが、3年前に別の同級生から同窓会の知らせを受けて参加した。世話好きの彼女ももちろん参加していて数十年ぶりの再会を果たした。みんなで「懐かしい」「何してたの」「今どこに住んでるの」などと言い合う中、彼女はひとり涙ぐんでいた。「みんな元気で良かった、心配してたのよ...」と言いながら。いい人なんだと思った。いや、昔もいい人だった。でもそれがうまく人に伝わらなかっただけなのだと。

そして先日、ずっと独身だった仲間のひとりが結婚することになった。いわゆる不倫の末の訳ありの結婚で、相手の男性の離婚が成立してようやくという感じだった。本人は、年齢も年齢だし経緯も経緯だけに...そういう意味合いも含めてあまり騒ぎ立てたくない様子(直接聞いたわけではないが、雰囲気で私はそう判断した)である。そんな雰囲気の中に登場してくるのが例の彼女。コロナもあるし式や披露宴はできないけど有志で結婚祝いを贈りましょうと躍起になっている。それに関するLINEがひっきりなしに来る。結婚する当人は「いつになるかわからないけど、コロナが落ち着いて、また今度会った時に...」と言っている。それで私や他のメンバーらも納得したのだが、彼女だけは「いや、せっかくだら」「やっぱり何かしてあげたい」と諦めてないようだ。

親切心は、時として無神経になる。

それは今でいう「空気を読む」ということになるのだが、彼女には親切心だけがいつも暴走してしまう。「今はちょっと抑えるべき、様子を見るべき」ということができない。若い頃の性格や生き方はちょっとやそっとじゃ変わることはなかった。

紙一重という言葉がある。いろんな感情は紙一重で良くなる時と悪くなる時がある。「たくましい」は「図々しい」「おおらか」は「いい加減」「優しい」は「優柔不断」そして無意識→無邪気→無神経という変化... 書き出したらキリがない。言葉を発する側と受ける側のアンテナが合ってる時は何の問題もないが、今回のようにまるで反対の方を向いている時は厄介だ。

『今、やってることはちょっと相手にとって迷惑なんじゃないかな』と私は彼女にLINEで助言した。これでもかなり優しい言葉を選んだつもりだ。それに対する返事はまだない。わかってくれるだろうか、それとも「せっかく私がいろいろ考えてるのに!」と怒っているだろうか。

でも私はうっすらと気がついている。彼女はこのまま歳をとってこのままおばあちゃんになっていく。たぶんそうだ。あの時お弁当を分けてくれた彼女は優しかった。それだけを覚えておこう。


読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。