言葉を舐めるな、甘くはないぞ
この本はひとことで言うならかっこいい本だと思う。かっこいいイケメンが書いているわけでも現代の流行を描いているわけでもないが、「文学は実学である」と言い切る。それがかっこいい。
「文学は実学である」を再読した。コロナがピークの時にこの本に出会い、いろいろなことを学んだ。この本に限らず目の前に本があったおかげで、神経が崩壊していくかもしれないという不安から逃げてこられたような気がする。しかし、文学は実学であるかどうかは現代においては難しい課題だと思う。医学や化学のように生きていく上で役に立つものは実学だと誰もがわかるだろうが、文学...果たして生きていく上で役に立つのか...?本を読まない人は一生読まなくても生きていけるし、それと同時に、本はテレビやラジオと同じようなメディアだと思っている人も多いだろう。ただ、私個人においてはとても役に立っている。読むことで悩みが軽くなったり、新しいアイディアが生まれたり、迷っている時は進むべき道のヒントをくれたりする。悲しい時には詩を読んで、楽しい時には散文を読んで、誰かになりたい時は小説を読む。そうやって冷蔵庫や洗濯機と同じように日々の生活に欠かせないものとなっている。
この本は、1992年から2020年までの28年間に荒川洋治さんが発表したエッセイの中から厳選された86編が掲載されている。「エッセイは虚構ではない」という考えの元、どのエッセイをとっても深く訴えてくるものがある。内容は旅に出た時の思いや、読んだ本に対する書評、現代の詩について、本を読む価値や意味...それはもう多岐にわたっている。荒川さんが読まれた本はみんな読んでみてくなるから不思議だ。ただ手に入らない本も多く、かといって大金を積んで買うのもなんか違うと思い、いつか古本屋の片隅で出会うことを夢見ている。
特にタイトルにもなっている「文学は実学である」の項は短いエッセイながらピリリとしたものがある。
...だがこの目に見える現実だけが現実であろうと思う人たちがふえ、漱石や鴎外が教科書から消えるとなると、文学の重みを感じとるのは容易ではない。文学は空理、空論。経済の時代なので、肩身が狭い。たのみの大学は「文学」の名を看板から外し、先生たちも「文学は世間では役に立たないが」という弱気な前置きで話す。文学像がすっかり壊れているというのに(相田みつをの詩しか読まれてないのに)、文学は依然読まれているとの甘い観測のもと、作家も批評家も学者も高所からの言説でけむにまくだけで、文学の魅力をおしえない。語ろうとしない。(本文より一部抜粋)
みな、うっすらとわかっていることだと思う。だが誰もこれを堂々と口に出して断言できなかった。口に出した荒川さんは簡潔かつ飾りのない言葉でその根拠を語ってらっしゃる。とても良い方の意味で荒川さんは珍しい方なのだと思う。
現代はインスタントで文章が書ける時代だ。作者の頭脳を通り越してAIが文章を作ってくれる。楽をすることはいいことだ。洗濯機が洗濯をして乾燥までしてくれる。炊飯器が希望通りの時間に希望通りの柔らかさでお米を炊いてくれる。声をかけるだけで音楽が流れライトがつく。楽ちんで快適でスマートな生活だ。でも文章だけはそうはいかない。じっくり野菜を育て、しっかり出汁をとって文章は書かなければならないのだ。
この本には、世の中にいる作家がいかに苦労して物語を作っているかが多岐にわたって語られている。その苦悩の結果を私たち読者は時に笑いながら、時に泣きながら、時に感心しながら想像を膨らませて読むのだ。ストーリーを知るだけならあらすじを読めばいいし、読んだ人に話を聞けばいい。でもそうじゃなく小説の中に出てくる登場人物にもわからないことが読者は文字を読むだけでわかってしまう。それが本を読む面白さなのだと...。そしてそれを自分の生活に重ね合わせ力をもらうのが文学なのだろう。『文学は実学だ』と思っている人も『文学はメディアのひとつだ』と思っている人もじっくり考えてみるきっかけになる本なのではないだろうか。
と、自分に言い聞かせる日々である。
読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。