10代20代のおねえちゃんのときだったら「ボヘミアンラプソディー」は全然違って聴こえたと思う。

 数年前に世間で大騒ぎしていた映画「ボヘミアンラプソディー」がTSUTAYAで旧作に並んだので借りて、子どもがテレビを見ている間にこっそり観た。

物語は1970年に始まっている。自分が生まれた年から始まり、自分が大人になったところでフレディ・マーキュリーが亡くなっているので、なんだか重ねる必要もないのに共感を持った。

私が高校生の頃は、ハードロックというのは下火になり、日本ではイカすロックバンド天国(イカ天)とかいうのをやっていて、タテノリビートの曲が大流行りだった。ジュンスカイウォーカーズ(ジュンスカ)とかいうバンドが大人気で筋肉少女帯(筋少)とジギーが好きな私はちょっと変わりもんと思われていた。バンドブームではあったが、地方公演では熱狂的なファンだけしか来ないのでホールは半分ほどしか埋まらないのだ。

ところで、私はクイーンというバンドは名前ぐらいしか知らなかった。フレディ・マーキュリーの名前は後に知ったがクイーンのボーカルだとは知らなかった。劇中の曲はなじみがあり、知ってる~というかんじだった。

調べてわかったが、クイーンは何度も来日している。ローリングストーンズが90年に初来日して、かつての少年少女たち(当時はすでにおっさん、おばはん)が仕事帰りにコンサートに押し寄せ、ニュースになっていたのとは大違いだ。

前置き終わり。

ボヘミアンラプソディーは劇中でも、意味不明、凡庸、くだらない、深刻ぶってるなど、発表当時は酷評であったが、私は映画を観た後でも、結局フレディは誰を殺してママに謝ってんだろ?誰がどうして何がどうしたんだろ?ってかんじだった。

ネット検索で解説を読んでようやく合点した。ヒット先はnoteだった。 ~フレディは誰を殺したのか?~【Queen和訳】ボヘミアン・ラプソディ【トド版】関西弁が玉に瑕だが、思い入れのある訳でよいと思う。

自分がごてごて説明しても誰にも伝わらないので興味のある方はtodomadogiwaさんの記事を直接読んでね。

私はフレディのツラさよりも両親の、あんな歌を歌わなければならない息子の両親、何事もなかったように生きてくれと言われなければならない母の気持ちはどんなだろうかと、それを思うとツラかった。

リアルタイムでクイーンファンだったらそんなこと思わなかっただろう。自分が10代20代、たとえ30代でも、子どもを持つ前ならフレディに共感しても、その親に共感はなかったと思う。

子どもを持つ今、自分が意識的にせよ、無意識にせよ期待していた、こうだろうと思っていた、望んでいた、そんな子どもが自分から去っていく、新しい自己を持ち、これまでの、ママと過ごした〇〇はもういないと思ってほしい、いつもの時間に帰ってこなくても気にしないで今まで通り生きてほしい…そんなこと言われて承知できるか!!あんたはママの○○やん!って。でも受け入れるしかないし、受け入れなければ子どもの、一人の人間としての子どもも、自分の愛する子どもとしての子どもも生きていくことはできない。本当の意味で生きていくことはできない。

フレディの両親は受け入れたのだと思う。すべてが足元から崩れ去ることと引き換えに受け入れたのだと思う。

同時に私は、いかなる信仰を持つかということは、人の一生を左右し、人生に大きくかかわることなんだと思った。日本人がよく言う、宗教は信じないとか無宗教とかそんなはなしじゃない。宗教法人かどうかとかそんなことじゃなくて。会社行ってるのも、店で買い物するのも、税金払うのも、対象を信じていなければできない。そういった意味で、何を信じるか、何を心のよりどころとするか。それが違えば人生が、他人の人生を生きるがごとく違ってくる。



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