ゆとり高校教員が考える「学校の未来」と「不安」

こんにちは。クマです。私はゆとり世代のアラサー高校教員です。

私は数年間、教員として高校で働いてきて、学校について様々なことを考えて来ました。ここでは、私の予想する学校教育の未来についてお話したいと思います。そして、私の最後に私の「不安」について書いていきたいと思います。

 ちなみにここに書くのは、あくまで、私の個人的な予想や願望が入り混じった身も蓋もないストーリーです。的中するかどうかは全く保証できませんので、ご了承ください。

高校教員の仕事

 現状、高校教員の仕事は大きく3つに分けられます。授業、分掌業務または担任業務、部活動の顧問業務です。制度的には部活動顧問は業務ではなく、ネット上では部活動顧問を拒否している方々もいらっしゃるようですが、多くの教員はそれをしていません。現実的にはこの3つが教員の仕事だと言えます。

 しかし、遠くない将来、この長く続いてきた「教員の仕事内容」は大きく変化すると思っています。私は、変化は大きく分けて2つあると予想しています。「学校の市場化」と「教育の福祉サービス化」です。環境の変化と制度の変化と言い換えてもよいでしょう。この2つの変化について順番に考えを説明していきたいと思います。

学校の市場化とは

 まずは「学校の市場化」についてです。簡潔にいうと、授業と部活動に大量の資本が流れ込む可能性があるということです。

 授業については、2019年、私は「GIGAスクール構想」なるものを知りました。小中学校では、教室にWi-Fiが設置され、生徒全員にPCやタブレットを配布して、「勉強道具」として使わせるということです。高校も当然それに習うでしょう。高校だけが紙とペンのままというわけにはいきません。

 これまで150年間、教員たちはチョーク&トークで子どもたちに知識を伝えてきました。ですが、PCというのはインプットからアウトプットまでそれ1台で完結する道具です。

ネットに繋がれば、教室、学校、地域、国境すら越えて情報を交換できます。さらに、全員で同時に同じ動画やテキストを見させる必要もありません。授業、時間割、年間指導計画、学年、といった時間の枠を越えることができます。

 全員にPCが配布されてなお、教員自らが知識を生徒に教えなければならないと考える教員はいないはずです。教員は新たな学習指導が求められるわけです。新たな指導方法、授業形態、知識、技能の開発と習得が求められているわけです。

 しかし、私たちの授業にトドメを刺すのはPCそのものではありません。PCを通じてやってくるであろう、企業が開発した大量かつ高品質な学習サービスです。洗練されたデザイン、魅力的なコンテンツ、生徒だけでなく教員までもが使いやすいシステム。こんなものが未だ「PCを活用した授業」の正解を見出せない教室にやってくれば、「これでいいじゃん」と誰もが口にするでしょう。

 学校や市区町村、都道府県単位で導入が決まるかもしれません。私がそのようなサービスを作れるなら、作って儲けたいとすら思います。そのようなサービスはおそらく、「授業」の必要性すら奪ってしまうのではないでしょうか。決められていることをわかりやすく、面白く教えるだけならば、それで済んでしまいます。

部活動も市場と化す

市場化するのは、何も授業に限った話ではありません。部活動も市場化の対象になり得ます。実は部活動顧問は本来教員の業務ではなく、「教員はブラック」と呼ばれる最大の理由でもあるのです。

各自治体では働き方改革の一環として、部活動の外部指導員を確保する流れは強まっています。すでに部活動コーチのアウトソーシングを手掛ける企業は存在しており、平成29年には「部活動指導員」という外部からきた指導者に顧問とほぼ同等の権限を与える役職がつくられました。

 文科省は部活動は地域に移行させる考えを示していますが、誰がそれをやるのか。その財源はどこから出てくるのか。現在、地域住民や自治体に新たに文化・スポーツ団体を興せる体力がどれだけあるだろうか。そんな体力が残っている自治体は殆どないと思います。
 
むしろ私は、部活動は学校に残り続けるのではないかと考えています。学校にコーチを派遣する企業が入っていき、教員が部活動指導をしなくてもよくなる状況はできるかもしれません。しかし、部活動を地域に移行するに至らず、結局学校にとどまり続けるかもしれないと考えています。

そう思う理由は、部活動の大会への注目が全く衰えないからです。甲子園を始めとして、部活動の大会はどんどんエンターテイメント化が進んでいます。すべての学校にOB・OGがいますから、学校対抗の大会の方が盛り上がるのです。このようにして、学校に部活動はおいたまま、専門的な知識を身に着けた指導者が外部からやってくるという未来が想像できます。

「指導」から「ケア」へ

 こんな感じで、授業が、部活が市場化されてしまったら、われわれ教員は何をすれば良いのだろうか。「そんなこと起きるわけがないだろう」、「そうなるという根拠を示せよ」と言われても無理です。

これはすべて私の想像でしかありませんから。全く違う未来がやってくる可能性の方が高いかもしれません。ですが、学校の教育活動を市場化しようとする波は止められません。

 この記事は終始私の予想なのですが、私は「教員」ではなく「支援員」となるのだろうと考えています。おそらく、自ら学びを進めることができる生徒たちにとっては、私は特に教員は必要がないと思います。

私達教員は、家庭状況によっては学習に自分で取り組めない生徒や、わからない箇所があっても他の生徒に質問できない生徒等、自走できない生徒のセーフティネットとしての役割を求められるでしょう。

つまり、「指導」から「ケア」へ仕事が変わります。教員に必要とされるのはICTやメンタル面、家庭の問題をケアし、生徒が学習に取り組めるようにサポートする能力です。その意味で学校教育が狭義の意味で「福祉サービス化」していく。学校は学びのセーフティネットとして機能していくのではないかということです。

そんな大きく学校が変わるとしても、「何十年先の話やねん!」と言われそうですが、環境は5〜6年で揃うと思われます。社会が変化するとき、いつも一番最後に変わるのが「制度」です。

ですが、環境と人々の意識が変われば、さすがに制度が変わります。これまでは学校は変わらなさすぎました。内田樹も「教育とは惰性が強い制度だ」と言っていましたが、今の教育は惰性が強すぎると私は思います。今の学校教育のシステムに教員がしがみついている感が否めないのです。

 正直このシナリオには、私の願望も混ざっています。未来の学校には「学年」といった概念もなければ、「偏差値」といった概念も存在しません。「学級」ももちろんありません。私が考える将来の学校は今の学校と大きく姿が変わります。学校の市場化と福祉サービス化は、「合理化」とも言えます。その意味では私の「理想の学校」に近いものがあります。

学校に足りないのは「ゼミ」

しかし、1つ私が考えた「未来の学校」に足りないものがあります。それは、「ゼミナール」です。絶対に、大学のゼミのような場が必要であると考えています。

教科書に書かれているような決められたことを学ぶのは、PCから十分学べます。しかし、主体的で対話的で協同的で深い学びを本当に行うならば、35人学級でも難しいでしょう。

20人以下のゼミのようなグループを設置し、教員が自らの専門性を活かし、生徒の主体的な学びや活動をサポートする。こうした「探究活動」が不可欠かと思います。

生徒の興味・関心に合わせて「ゼミナール」を編成しても良いのではないでしょうか。むしろこれからの教員の腕の見せどころはここじゃないかと思うわけです。

「教員」という生き方の消滅。

 最後に、以上に述べたような「未来の学校」に私の願望が含まれるならば、なぜ私は「不安」なのか。それは、「教員」としての生きる道がなくなってしまうかもしれないからです。

10年後、教員の仕事はどのようになっているでしょうか。

たとえ私の予想が的外れだとしても、教員の地位はここ数十年、低下し続けているのは誰もが認めるでしょう。高校教員はAIの発達とともに、その仕事がなくなるかもしれない職業と言われています。

何より、現在の教育システムは、社会全体の識字率を向上させ、国家が国民を教育するための、数百年前に考えだされた「効率的なシステム」なわけですから、いずれは、時代に即した「より効率的なシステム」に改変されるときが来るでしょう。それが、私が働いている間、すくなくとも30年以内には起こると考えています。

 YouTubeもこれから先、今の状態で30年も続かないでしょう。必ず大きな変化が訪れます。「YouTuber」という生き方はおそらくできないと思います。

それと同様に、私達の先輩方が歩んできたような「教員」という生き方はしたくてもできないかもしれない、それが私の最大の不安です。これからはそれを意識して学んでいきたいと考えています。皆さんはどのようにお思いでしょうか。よろしければお聞かせ下さい。

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