絶罪殺機アンタゴニアス #13
男は呆然と立ち上がった。
親指しかなくなった左手の出血は、止まらない。応急処置などする気にもなれなかった。
銃口をこめかみにあてがい、引き金を引いた。
カチリ。
ひ、ひ、ひ、と笑いがこぼれる。
その場に拳銃を投げ捨て、泣き笑いのまま、あてどなく歩き始めた。
周囲は、奇妙に明るかった。
光源なき地下に落ちたならば、暗闇に包まれていなければおかしい。子供の無残な姿を見ることもなかったはずだ。
だがその不可解さに気づくこともなく、壊れた蛇口のように笑い声を漏れ出させながら、男は脚を進めた。
右に、左に、生ける屍のごとく揺れ動く。
口の端より涎が足れ、目は真円に見開かれている。
――何も。
もう何もなかった。
生きる意味も、死ぬ意味さえも。
このまま失血死するまで歩き続けるつもりだった。否――そのような目的意識さえ、もはやなかった。
自発的に何かをしようという意思が、死に絶えていた。ただ、あの場に居続けることが耐えられなかった。
だが。
その扉の前に立った瞬間、男は足を止めた。
美しい、扉であった。
地球がメタルセルユニット構造に覆い尽くされる以前の異形の生物たちが戯画化され、所狭しと彫り込まれている。
実際には存在しなかった神話生物の姿もあったが、男にその区別はつかなかった。
右手で触れると、その部分から波紋のように、紫紺の光が広がっていった。レリーフの凹部分をなぞるように、無数の光の線が拡散したのだ。
《測定罪業値:知的生命への看過しえぬ虐殺、および実子の殺害により768。ただしいずれも情状酌量の余地あり。罪業値の一時凍結を申請――認証。絶望値:998。憎悪値:3。導き手としての基準値を満たしているものと判断――認証》
唐突に鳴り響く声。子供と、老人と、男と女が同時に喋っているような、奇怪な声であった。
《歓迎します。罪の導き手、英雄の介添人よ》
扉が、かすかな駆動音とともに開き始める。
同時に、何か濃密な気配に満ちた空気が扉の間から漏れ出て、男の足元にわだかまった。
そうして、男の目の前に、その光景が広がった。
大都市の一区画がまるごと収まる、畏怖を覚えるほどの広大さ。
漆黒の建材によって形作られるは、退廃と耽美の礼拝堂。空気にかすむほど遠くに見える壁には、気の遠くなるほど巨大なステンドグラスが所狭しとはめ込まれていた。そのすべてに神話的な象徴が表現されており、幽妖なる光を投げかけている。いずれも宗教的なシンボルにも、奇妙な文字にも見えた。
天井にはアーチ状の梁が交差しながら無数に架けられ、まるで顕微鏡で見た生物の細胞のようであった。それらのあわいには精緻なフレスコ画が描かれている。人間たちが、何かの大群に追われ、惨たらしく殺戮されていた。だが、虐殺者どもの詳細は距離が遠すぎて判別できない。生物にも、機械にも見えた。
その下には、黒紫の奇妙なシャンデリアがいくつも浮かんでいる。
黒い材質に、紫の奇怪な紋様が刻まれ、陰惨な光を放っていた。その中央には――脈打つ肉塊があった。皮を剥かれた、胎児のごとき様態。遠近感が狂うほどの、恐ろしく肥大化した罪業変換機関だった。あれを動かすのに要する罪とは、いったい何だ。
目を下に向ければ、紫紺のエネルギーラインが拍動するように輝度を変えながら、床を無数に走っていた。その軌跡は折れ曲がり、やはり神秘的な印章とも文字ともつかぬ図形を形作っている。
だが――それらは最終的に、この礼拝堂の中央に収束していった。
そこに、ソレが座していた。
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