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この救いを伝えて逝きたい

  目次

『……一切……寂滅……色即……是空……』

 止めを刺したのではない。解き放ったのだ。物質として存在していた悪鬼の脳髄は、ヴォルダガッダという存在を一定の規格に繋ぎ止めておくための楔のごときものであったのか。

『生きる限りオレたちは苦しむ……苦しむことに意味なんざねえ……眼をひらき、智を生じ、寂静と証知と等覚と涅槃に資する道……それが必要だ……』
「それは、何であるか。」

 八臂のうち二腕で降三世明王印を切り、残る六つの掌中に紅き神統器レガリアが出現する。

『オレは、もうすぐ消える……自分でわかる……依代であった脳髄を砕かれれば、いつまでも在り続けることはできねえ……テメーが何もせずとも、オレは消える……』

 造形も定かならぬ暗黒の顔面に、二つの裂け目が生じ、紅い眼光を放つ。

『だが――その前に、恩を返させて欲しい……オレにとって渇愛は最初から縁遠かったが、今や無明までも取り去られた……かつてなく、自らが自由になったのを感じる……テメーのおかげらしい……』
「それは違うな。小生、貴様に救いを与えるつもりは毛頭なかった。もし貴様が救われたというのなら、それは貴様自身の縁起がゆえである。」
『だとしても……テメーにだけは、この救いを伝えて逝きたい……それがオレの、最後の執着だ……』

 闇色の悪鬼の背後で、紅き巨神がいよいよ膂力をたぎらせ、烈火、ギデオン、フィン、トウマらの縛鎖を引き千切ろうとしている。猶予はない。

「よかろう。最期まで付き合ってやるとも。どの道、我が四人の朋友による巨神拘束はそろ/\限界であろう。貴様が消えるまでのんびり待ってはおれん。見惚れたまゝ死に腐れ。」

 顔の下部に巨きな裂け目が生じ、嗤った。
 そうして――殺戮の明王は、威容にして異様なる構えを取る。
 奇怪に捻じ曲がった菩提樹のごときその佇まいは、まるで限界まで張力を引き絞られた鉄索のごとく、キリキリと軋みを上げながら超絶の力を内部に貯め込み始めていた。
 その身の裡に、宇宙の質量を有する姿であった。
 その身の裡に、宇宙の距離を有する姿であった。
 ひとつの世界に等しいものと、対峙している。総十郎はそう感じる。あらゆる意味でその感覚は正しいのだと確信する。

『疑惑を捨て……迷妄から覚め……ただあるがままに世界を観て……ただあるがままに胸を震わせる……そうして「在る」ということの有限性を悟り……ヤビソー……テメーがいずれ老いて衰えてゆくということに我慢がならなくなった……』

 赤黒い歪律領域の炎がその全身より立ち上る。潮の満ち引きのごとく、押しとどめがたく律動している。

『テメーを宇宙に永遠に刻み付ける……テメーがそれを望まないことはわかっている……』

 総十郎は、軍刀を持たぬ方の腕を持ち上げ、手の甲をヴォルダガッダに向けた。
 手指の狭間から、敵手を透かし見る。そして奇妙な規則性に満ちた動きで指を曲げ、伸ばす。五指の動きは同期しておらず、個別のリズムで別個の生き物のように動いている。
 そこでは極めて高度な方程式が、整然と計算されつつあった。
 五行思想に基づく元素解析だ。

 ――見えた。

 総十郎は腰を落とし、軍刀を握る力を程よく脱力させた。これより放つ太刀は、全身の力で放つゆえ、手に余計な力が加わっているのはよろしくない。

「五行の運行に照らして観れば、かの悪鬼を駆動せしめる魂の形質は金徳。不動にして不変、安定したる凶気なり。ゆえに、火克金の理をもってかの刃気を分解せんとしてきたが――」
『この素晴らしい世界のなかで……きっと誰もがそれぞれ矛盾する渇望を抱えて鬩ぎ合っている……誰かが我を通せば、誰かが踏み潰される……ならばオレはその矛盾を愛そう……あるがままに……ただあるがままに……』
「――むしろ成すべきは木侮金の理なり。代償なき勝利に慣れ過ぎた。小生もまた痛みを負う覚悟が必要であろうな。」

 総十郎は学ランを脱ぎ捨て、シャツを引き裂いて上半身を晒した。引き締まった均整美の極致とも言うべき肉体が現れる。
 そして、その場に正座した。おもむろに軍刀をくるりと持ち替え――

『ア……?』

 刃を腹に押し当てた。

『オイ……オイちょっと待て。何やってんだテメー』
「言ったであろう。お主と戦うために痛みを受け入れると――。」

 ――腹を召す際には、切っ先で突いてはならぬ。刃を当て、倒れ込むように全身の力で押すべし。

 大和男児やまとおのこのたしなみとして、作法は頭に入っている。ゆえに、そのようにした。

 ●

 ヴォルダガッダは、絶叫を上げた。
 何が起きたのかわからなかった。どうしてヤビソーが自らの腹を掻っ捌いたのか、ひとかけらも理解できなかった。

『何を……何してやがんだテメェエエエエエエエエッ!!』

 駆け寄る。罠かも、などとは考えなかった。そのような余裕はなかった。
 命は尊いものである。ヴォルダガッダはその価値を最大限認めている。
 奪うものに価値がなくば、意味がない。それは空しいばかりだ。だから一個のオークとして生きていた頃の自分は常に満たされることがなかった。価値を認めなかったから。
 だが、今は、違う。

 ――テメーの人生だから叩き潰したいのだ! テメーの可能性だから奪いたいのだ! テメーの運命だから踏みにじりたいのだ!

 なのに。なのに。

『フザけるなよ……命を、なんだと思ってやがんだ……ッッ!!』

【続く】

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