ラマダン(断食月)を体験する@トルコ
初日に4つの空港を訪れるという大技を決めたのち、やっとたどり着いたトルコ北東部、トラブゾン。
友達にも再会し、家族に温かく迎え入れてもらい、やっとホッとして…。と思いきや。
実は、私にはまだ完全にはホッとできない事情が存在した。どうしても気になり、少し気張ってしまう事案、それはラマダン(断食月)の体験だった。
前々回の記事でも書いたのだが、私がトラブゾンを訪れた3月前半は、断食月にドン被りしている。さらに今回お世話になる友人一家はイスラム教徒で、イスラムの五行の一つと言われる断食もしっかりと行う。
私はムスリムではないため苦行をする必要はないのだが、友人からは「私たちが断食をする関係で、朝食や昼食は出せないかも…」と事前に言われていた。しかし、せっかくトルコに来たのだし、こんなにムスリムの生活を肌に感じる機会はもう滅多にないだろう。一人でやっても苦しいだけだし、友人と一緒なら耐えられるに違いない。私は正直、この体験を心待ちにしていたと言ってもいい。
まずは、私が知る範囲の「断食」(+インターネットの情報)をここに書き記したいと思う。
・日が昇ってから日が沈むまでの間、断食を行う。食物はもちろん、水を飲むのも禁止。
・ご飯を食べる機会は1日2回ある。まずはイフタールと呼ばれる夕食。日が沈んだ直後に食べる。トルコ料理はお母さんが作る家庭の味そのものでおいしいのだが、イフタールは別格。1日断食に耐えたご褒美のご飯という意味合いもあり、丹精を込めて作られる(ただし作っている最中の味見はできない)
そしてもう一回は、日が昇る直前、つまり朝4時くらいに起きて朝食を食べる!食べたら寝る!!
・ラマダンが行われる目的は、「ご飯を食べられない貧しい人たちの気持ちを理解し、食べ物に対する感謝を忘れないこと」等があげられる。
1日目
初日は疲れ果てて20時には就寝してしまった私だが、友人には「私も朝食をみんなと食べる。朝起こしてくれて構わないから」と告げていた。
しかし、翌朝、明るい中自然に目が覚める…。時計を確認すると、午前8時。丸々12時間眠っていたようである!
友人によると、「家族会議をした結果、マイケル(私)はトラブル続きで疲れているだろうから、寝かせてあげよう」という話になったのだと聞かされた。もちろんありがたい。しかも豪勢な朝ごはんまで出てきた。友人家族はよく、「ムスリムでない人を断食に付き合わせるのは申し訳ない。」と言っていたが、断食をしている人の目の前で豪勢な朝食を食べる私も申し訳なさを感じる。
この日はトラブゾンをいろいろ観光したのだが、それは別のnoteで。
友達が「歩き回ると喉が渇くから、あまり連れて行けないかも…」と言っていて、月並みだが「すごい世界だなあ…」と思った。
2日目
この日は朝4時に友達に起こしてもらい、朝食を食べるところからスタート。昨日は夕食をかなり沢山食べたので、正直そんなに食べられない。が、お腹が空かないようになんとか朝食を入れる。
この日は4時36分から断食がスタートし、食べ終わって歯磨きをしてもう一度寝た。
頑張って食べた甲斐があり、その日は特別「お腹がすいて死にそう!」ではなかったものの、夕方4時頃からお腹が鳴って鳴って仕方がなかった。
3日目
この日はスメラ修道院という神秘的な観光名所へ行く予定。かなり山奥にあるらしく、友人家族は「マイケル(私)は朝食を食べた方がいい!」という強いすすめがあって、朝食を頂く。
友達の叔父さまも一緒に行ったのだが、「断食挑戦しましたー」と報告すると、「この子はイスラム教じゃないのに、一緒にしてくれているのか!いい子だね」とひたすら褒められる。味をしめてしまいそうだ。
4日目
初めて断食を体験した日はめちゃめちゃ頑張って食べたので、強い空腹感を感じる時間は少なかったが、この日はなぜか朝10時くらいからお腹が空き始めてしまった。
友達曰く、「起きたらお腹が空いてるとか、喉が渇いてるとか、そういうのは運みたいなものだから…」と言われる。哲学的な考え方だな。
5日目
今まで観光して過ごすことが多かったのだが、本日は家でゆっくり過ごした。断食月は、日中とにかく寝て時間を過ごす人も多いらしい。もちろんその理由は『空腹状態で起きているのが辛いから』
ちなみにテレビでは、ニュースの片隅に断食終了の時間が常に出ており面白い。当たり前だけど、それほど一大行事なんだなあ。日が沈む時間が断食終了時刻なので、地域によって微妙に時間が異なるのもポイント。
6日目
今日の夜にトラブゾンを発つから、断食も最終日。友達が「記念に」と言ってくれたのは、ラマザンカレンダー(?)なるものだった。
左側にある数字は、ラマザン何日目かを示している。(今日は15日目)
右側にあるのは、エザンという日に5回あるお祈りの時間である。1番上と下から2番目の薄く塗られている部分が、断食の始まり・断食の終わりである。
さらに、この日の夕食は本当に豪華だった。
ラマザン中の夕食は(上記の通り)断食明けの楽しみであるから、かなり豪勢である。
しかしこの日は、私が旅立つからか(と信じているが笑)とっっっても豪華なイフタール(夕食)だった。
まとめ
今考えれば、「いい経験したな〜」の言葉しか出てこないが、当時の日記を改めて読み返すと、『信仰心のない人がこれをするのは結構大変で、やっぱり断食というのは信仰がなせる技だということがよく分かった』と書いてある。なるほど。
さらに面白かったのは、『断食時間を超えて断食することは、全く良いとはされないこと』である。断食時間が終わったら、即食べることが大切らしい。
どれくらい大切かというと…
夕食のパンを買うために並んでいる人たちが、並びながら断食終了時間を迎えると、パン屋がその行列の人たちに水を配る。つまり、断食終了直後にきちんと食べ物(飲み物)をとってもらうために、わざわざ配るのだ。
これはなかなか面白い。苦しいことは、すればするほど善行に繋がるのでは?と私は思ってしまうのだが、もしかしたら仏教の苦行の考え方とイスラム教の考え方は違うのだろうか…。などなど。
もう一度やるか?と言われたら、多分やらないだろうが、やらなければ分からないこともあるよな…と納得した6日間。トラブゾン編はまだまだ続きます!
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