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魏の初代皇帝でもある冷酷な漢・曹丕

メチャクチャ個人的には久しぶりに書いてます。ただのオタクです。
2023年になって初めて書いてるんですが、2022年は冠婚葬祭の年で2,3か月に1回は実家との往復を繰り返しました。
まぁ今年に入ってもずっと移動を繰り返してるんですけどね…。

まぁそんなこんなで忙しい時期を送ってきましたが、とりあえず前回を魏の第1世代として一区切り。
今回は「曹丕(そうひ)」を紹介しようと思います。
曹操(そうそう)の息子で第2世代ということになるんですが、真・三国無双をプレイしている人はあまりしっくりこないかもしれませんが、
曹丕は魏の初代皇帝になります。曹操は生前魏王までしか就いておらず、後々曹丕から皇帝の位を追贈されます。
諡号(しごう)は「武帝(ぶてい)」となります。あまり触れては来ないですが諡号はその名の通り諡(おくりな)なので、
死んだあと送られた位となります。そして、これまで記事にしてきた武将にも位は存在しています。
有料記事の部分で一応紹介しています!(露骨な宣伝w)

ーー曹丕が皇帝になるまでーー

曹丕は8歳で文章を匠に操り、初陣は11歳だと言われています。
ゲーム「真・三國無双」をプレイしている人は曹丕は次男だという印象がある人がいると思います。
しかし、曹丕は実際には三男であると言われています。
長兄である曹昂(そうこう)は前に紹介した典韋(てんい)と共に「宛城(えんじょう)の戦い」で戦死しています。
そして、次男である曹鑠(そうしゃく)は20歳前後で早逝したと言われていますが、正史にはほとんど登場しません。

曹丕が弟の曹植(そうしょく)と共に曹操の後継争いに躍り出ることができた一つの要因として2人の母親である卞氏(べんし)が曹操の正室として取り立てられたことも挙げられます。
因みにドラマの「三国志ーThree of Kingdomsー」では同母弟の曹彰(そうしょう)が加わっているような描写が時々描かれます。
実際には正史と同じように大将軍、前衛で戦い信賞必罰を掲げて戦いたいと曹操に伝えています。

後継争いは曹丕には優柔不断な一面があったとされており、そのせいで一時劣勢になったものの部下の進言で優位を取り戻しました。
その証拠のように曹操が出陣すると副丞相(現代で言う首相)となり留守を守っていました。
しかし、最終的に決定権がある曹操は実際には迷っており部下に意見を求め以前に紹介した賈詡(かく)の皮肉が決定打となり曹丕が後継として正式に指名されます。

曹操が魏公、魏王と昇ると曹丕は丞相の人を受け継ぎ就任します。
程なく曹操が崩御すると、混乱が起こります。
まずは曹操が天下に名を挙げるきっかけになった青州兵(せいしゅうへい)と臧覇(ぞうは)という武将の部下が天下が乱れると思い、勝手に持ち場を離れ青洲に帰還。
そして、劉備(りゅうび)から弔問の使者が訪れるという報告も届きます。
臧覇は後々朝廷に対する不満を口にします。この勝手に持ち場を離れた件が曹丕の中で引っかかっており結局臧覇の兵を取り上げ、臧覇自身は総火の軍事顧問として就任します。
劉備からの使者に関して曹操の死を利用して好を通じようとするかのような行為に不満を感じた曹丕が使者を切るように命じます。

曹操が崩御する前に蜀を裏切った孟達(もうたつ)という人物が私兵4千家を引き連れて魏に降るということがありました。
これを曹丕は全面的に受け入れますが、反対する部下も多かったと言われています。
しかし、曹丕は毒を以って毒を制すのような意味合いの言葉を部下に投げかけ房陵(ぼうりょう)・上庸(じょうよう)・西城(さいじょう)を併合し、新城郡として孟達に統率を担当させるという大抜擢を行いました。

新城郡のおおよその位置

ーー皇帝に即位してからの曹丕・治績についてーー

曹丕の治世の代表的なものが陳羣(ちんぐん)が施策した「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」です。
これは科挙(かきょ)が施策されるまで長い間採用され続けたと言われています。
そして、曹丕を一番に悩ませたのがおそらく同母兄弟だと思います。その代表的なのが後継争いをしていた曹植の存在です。
三国志演義での「七歩の詩」が有名で一番わかりやすいと思います。この件で曹植は処断されるところを詩に感動した曹丕に罪を軽くされ転封という処分を下します。
因みにこの時の一件で煮豆燃萁(しゃとうねんき)という故事成語が生まれました。

戦に関しては簡単に言ってしまえば、明確な勝ち戦というものはありませんでした。
曹丕が即位した頃は孫権(そんけん)と劉備が樊城(はんじょう)の戦いで蜀を裏切って関羽(かんう)を討ったことで一触即発の自体になっており、夷陵(いりょう)の戦いを経て蜀が負け戦で国が傾くくらいの敗戦。
この時魏と呉は名目上とはいえ同盟関係にありました。なので、曹丕は呉への援軍という名目で軍を南に動かしていました。
呉側の動きはまた別の機会に書きたいと思いますが、魏の動向としては戦が決着した後、皇太子である孫登(そんとう)を人質に差し出すという話をうやむやにしている呉を討伐するという名目で南に展開していた軍をそのまま呉討伐の為に進軍させます。
ここからの戦は「222年から223年にかけての三方面の戦い」と言われており、この中の一つが曹仁(そうじん)を紹介する記事に書いた息子との濡須口(じゅしゅこう)での戦も含まれています。
濡須口で曹仁が敗退。江陵(こうりょう)では曹丕が絶えず援軍を送っていましたが、呉将の朱然(しゅぜん)が奮戦。結果魏側の兵糧が切れて退却。洞口(どうこう)では魏が大勝するも手痛い反撃をくらい曹休(そうきゅう)や張遼(ちょうりょう)らが敗退。
最終的に疫病が流行ったことで総退却。

政、戦に関しては纏めるとこんな感じです。
曹丕は在位期間が短い方だと思います。死因は病に倒れてそのまま崩御することになります。
その病の原因ですがドラマ「三国志ーThree of Kingdoms-」では幼い頃からの病で曹操にすら内緒にしていたと司馬懿(しばい)に語ります。
北方謙三先生の三国志では濡須口での戦いで風邪に罹りそのまま重篤化し崩御するという形でした。

ーー作品での曹丕ーー

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