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典韋(てんい)悪来と呼ばれた豪傑

皆さんこんにちは。ただのオタクです。
僕は未だ半袖で過ごしている昨今皆さんは如何お過ごしでしょうか?(笑)
一応上着は用意してるんですけどね、まだ羽織ったことは無いです(笑)

さてさて今回紹介させてもらう武将は「典韋(てんい)」です。
知ってる人は悪来(あくらい)典韋という名前が通ってると思いますが、これは三国志演義での話で本当の字は伝わっていないとされています。

典韋は実は将軍の位に就いてはおらず校尉(こうい)という部隊長の位にまでしかなっていないんです。
それでも曹操(そうそう)の警護として任を全うした豪傑っぷりは有名なことと思います。

因みに悪来というのは殷の時代にいた武将のあだ名です。
本当の名前は嬴来(えいらい)と言って人物で、父親は足が速く、嬴来は剛力で有名で殷王朝に仕官しました。
国政を任されますが人を諫言したり、傷つけたりするのが巧みだったために人々から「悪来」とあだ名されてただでさえ人心が離れていた王朝からさら評判が下がることになります。
これにより「殷周革命」という革命がおきたとされています。

周に王朝が変わった時に殷の紂王(ちゅうおう)と共に処刑されます。
父親と一緒の墓に嬴来は埋葬され、家計や嬴来の弟が継いだとされています。
時は流れて春秋戦国時代に晋の国に趙氏として名前が再登場します。

ちょっと話は脱線しましたが、嬴来の家系とは何も関係がありませんが同じあだ名の典韋をこれから紹介していきたいと思います。

ーー典韋の豪傑ーー

典韋は若いころ劉氏(正式な名前忘れました)彼の仇でもある李永(りえい)という人物を討とうと企てました。
李永は昔役職に就いていたこともあって厳重な警護を付けていました。
そこで典韋は表面上はただの客を装って屋敷に入り李永を殺し、ついでに李永の妻も殺害しました。
この日は近くに市場が立っていたこともあり大騒ぎになりましたが、その腕前にか堂々とした態度にか誰も近づくことが出来ず遠巻きに後をつけていくだけでした。
結局残党に遭遇したもののの戦い脱出に成功。
この一連の事件で典韋は豪傑として知られるようになったと言われています。

その後袁紹(えんしょう)や曹操との昔からの学友である張邈(ちょうばく)という男が挙兵します。
誰にも持ち上げられない旗を片手で持ち上げた典韋は一目置かれる存在になり、夏侯惇(かこうとん)に見出されて曹操軍に従軍。
いくつもの功績を上げて司馬(しば)に昇進します。

呂布(りょふ)が曹操軍の領土兗州(えんしゅう)を留守中に襲ってからの攻防戦では、数十人で突撃しいくつもの敵陣を突破する功績を上げました。
この功績で校尉(こうい)所謂部隊長に昇進。
忠臣で慎み深かった典韋は曹操の護衛に就きます。

ーー曹操の護衛としての典韋ーー

曹操が寝る時にも帳の左右に控えて護衛をしていた為、家に帰ることもほとんどなかったと言われています。
そして飲み食いの量が人の倍で曹操の御前で食事をとる時には左右に待機させて酒を注がせないと間に合わなかったり、
給士を数人増やしてやっと間に合う状態だったそうです。
現代でこの姿を見たら常連かVIPかな?もしくは性質の悪いクレーマー?

典韋は「帳下の壮士に典君あり。一双戟八十斤を提ぐ」と言われる豪傑であり、大きな双戟や長刀という長物の装備を愛用していたと言われています。
そんな典韋にもとんでもない修羅場が訪れます。

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