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劉邦の軍師・張良

皆さんこんにちは、ただのオタクです。
前回荀彧(じゅんいく)を紹介させてもらいましたが、一つのことを書き忘れてしまいました。
曹操が荀彧を迎える際に「我が子房(しぼう)が来た!」と喜んだとか。
この子房というのは前漢の張良(ちょうりょう)字を子房という人物を指します。

ということで今回は荀彧の番外編として張良のことを書いていこうと思います。
張良は皆さんも聞いたことがあると思うんですが漢の高祖・劉邦(りゅうほう)に軍師として仕えていました。

張良は20代の頃「韓」という国の出身ですが、秦の始皇帝によって国が滅ぼされたことを恨み復讐を誓い暗殺を企てます。
結果失敗に終わり、暗殺を企てた人物を指名手配して捕えようとしたため偽名を使い下邳に身を隠しました。

一つの伝説としてある汚い服を着た老人が橋の下に張良に靴を投げ「拾ってくれ」「履かせてくれ」と我儘を言います。
張良は「この老人に最後まで付き合おう」と考え老人の言う通りにし、「教えたいことがあるので5日後に来い」と言い去りました。
5日後陽が出てから向かいましたが既にいた老人に「目上の人間を待たせるとは何事だ!5日後また来い!」と言い、日の出と同時に行きましたが老人が既におり「5日後にまた来い」と告げてまた去りました。
張良は今度は夜中から待ちやってきた老人から「その謙虚さが大事なのだ」と告げて太公望(たいこうぼう)の兵法書を託し「13年後に山の麓で黄色い石を見るだろう、それが儂だ」と言われ張良は言われた通りに黄色い石を見つけ家宝にしたと言います。
これはどう考えても伝説上の話ですが、人生訓として考えさせられますよね。
皆さんは同じ状況になったらここまで老人に付き合いますか?
もしかしたら謙虚さが大事と言われても「貴方は礼儀が必要だろう!」って僕なら言い返すかもしれません(笑)

後々劉邦に仕え、秦の首都である咸陽(かんよう)という城を陥落させます。そしてかの項羽(こうう)とすったもんだあり仲良く会談をするために設けられた席を「鴻門の会(こうもんのかい)」と言います。
この会では劉邦の暗殺が企てられたりして張良と樊噲(はんかい)という人物と共に危機を脱します。
そしてこの「鴻門の会」ですが、三国志演義で董卓(とうたく)が美女貂蝉(ちょうせん)にうつつを抜かしている時に腹心である李儒(りじゅ)に「鴻門の会」を例えに出されて貂蝉に惚れている呂布(りょふ)に下賜することで、呂布との仲を回復するよう進言されます。
横山光輝先生の三国志とかでも見られるシーンですね。
結果的に董卓は貂蝉を下賜する約束を反故にしたり、貂蝉の養父である王允(おういん)の口車に乗せられて董卓は殺されてしまうことになります。
だから名前だけ知ってる方もおられるかもしれません。

劉邦は項羽と戦をして敗北し包囲されてしまったとき酈 食其(れきいき)という儒者(じゅしゃ)所謂学者に「項羽が殺した領主の子孫に位を封じれば皆喜んで臣下になるでしょう」と説きます。
これを真っ向から張良は反対します。
箸をとって8つの理由をもって愚策であると説きます。
「酈 食其のせいで危機に陥るところであった」と劉邦が怒り張良の意見が容れられました。
この様子も三国志の作品に取り上げられることがあります。
曹操が袁紹(えんしょう)との一大対決「官渡の戦い」の前に曹操が軍議を開き、袁紹と戦うか降伏するかを部下に問います。
いろいろな意見が飛び交う中、荀彧が「曹操が袁紹に負けるはずがない!」と言い、7つの理由を説きます。
状況も意見の数も違いますが、王佐の才と言われていた荀彧と張良との接点をここで付けたのかなと僕個人には思えたりします。

これ以外に張良は戦乱の間も天下統一後もいっぱい活躍しますが、いっぱい書くとオタク特有のうざさが出てきてしまうと思うので自重します(笑)

と言いつつ最後に一つだけ。
実は張良の子孫と名乗る人物は三国時代にもいますが、明の時代に日本に渡日し毛利輝元に仕えていた張元至(ちょうげんし、日本名:もとよし)という人物がいたと言います。
家老にまで出世しているらしいのでもしかしたら日本にも張良の子孫の血が連なってる可能性が無きにしもあらずですよね。

僕が知らないだけで今名乗ってる方っていらっしゃるんでしょうか?
もし情報を知っている方がいらっしゃったら教えてくれませんか?
織田信長とか、野口英世とかの子孫がいらっしゃるので可能性がゼロではないですよね。

情報お待ちしてます。

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