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青春の蹉跌 -或いはクリスマスの思い出- 

今回の記事は天理が舞台になってはいるものの、信仰的な話は一切出てこないことをご承知置きいただいた上で、サラリと読んでいただければ幸いである。

先日、出入りの業者さんが置いていったクリスマスケーキのチラシと注文書を手に取って、ああ。もうそんな季節なんだなと思いつつ、天理教の教会にクリスマスケーキの注文書って、キリスト教の教会に注連縄しめなわやお線香のチラシを持ってくるようなもんだよなあ。と、なんだかモヤったのだが、もはやクリスマスやバレンタインデーが国民的行事になっている時代に、そんなケツの穴の小さいことを言っていては教会長などやっていられないのだ。それが外国の宗教に起因する行事だとしても、平和なイベントならウエルカムじゃないか。
よく晴れた晩秋の午後、信者さんのお宅でそんな話をしていると、女子大生のお嬢さんが、
「会長さんは学生時代のクリスマスの思い出ってあるんですか?」
と、聖母マリアの如き微笑みをたたえていてきた。
突然の問いかけに
「うーん。クリスマスの思い出?うーん。そうだねえ・・・」
と、遠い目をして一応は考えるふりをしたのだが、汗臭くてむさくるしい男子寮で暮らし、しかも寮内で「西日本プロレス同好会」などというアホ丸出しな団体を主宰していた僕である。硬派で肉体言語しか語れなかった者にクリスマスにまつわる美しい思い出なんぞあるわけもなく、プロレス同好会の仲間と寮を抜け出して遊びに行った京都の木屋町でベロンベロンに酔っ払い、三角帽子をかぶったサラリーマンの一団と三条大橋の上で大立ち回りを演じて完勝したことが、Christmas Eveの赫奕かくやくたる唯一の思い出であった。
その闘いは、二人の女子大生風お嬢ちゃんにしつこく付きまとう若いサラリーマングループの5人を、僕たちの中の”馬田馬之助”というリングネームを持つ男が「これこれ。みっともないからよしなさい」と優しく制止したのだが、逆ギレした彼らの一人が、その胸ぐらをつかんだことに端を発していた。
橋のたもとにある三条大橋東交番から駆けつけたお巡りさんに、事の次第を当のお嬢ちゃんたちが説明してくれたので、交番で説諭されただけで大事には至らなかった。
ちなみに同好会のメンバーは全員がリングネームを持っており、僕は”ラッシャー○○”と名乗っていた。どうでもいい話だなw

だが、可憐で清楚な現役女子大生ようぼくという、我が弱小教会にとっては”至宝”以外のナニモノでもないお嬢さんを相手に、会長さんがそんな思い出話などできるはずもなく、「うーん。うーん」と脂汗を垂らしながら唸り声を上げていると、クリスマスケーキというキーワードが、はるけし記憶を呼び醒ましたのであった。

そう、あれは高校2年生の時のクリスマスのことであった。
昭和後期、日本専売公社からマイルドセブンが発売され、ダッカで日航機ハイジャック事件が起き、巨人の王貞治選手が対ヤクルト戦で世界新記録となる756号目のホームランをかっ飛ばし、テレビの白黒放送が廃止され、ドラフトでクラウンライターから指名された江川卓がそれを拒否した頃の出来事である。
前述した「三条大橋の乱」の前年。12月下旬という年の瀬になっても、僕と友人の北山は帰省せず寮に残っていた。
寮の職員もあらかたは帰省しており、僕たち以外で寮に残っているのは2人の舎監だけであった。
友人の北山は九州、佐賀の出身だった。佐賀までの帰省費用は馬鹿にならない額だった。といって、親から帰省費用の仕送りが無かったわけではない。北山の親もとから12月の初旬には現金書留が届いていたのだが、遣い込んだのだ。北山と僕でスナックに2回行ったら帰省費用はキレイに無くなってしまった。
酔っ払って気が大きくなった北山が「無くなっても看護師の姉ちゃんに借りるから」というので安心して散財した。しかし翌日、北山が看護師寮まで出向いて無心したところ、速攻で美人のお姉さんから「キサン!なんゆーとっとか?シバキあぐるぞコラ!」と罵声を浴びせられ、その瞬間に寮での越冬が確定したのだった。
僕の実家は近県にあり、帰ることはできたのだが「友よ。瀕死の重傷を負ったお前を置いて下山などできるものか!」と、まるで雪山で遭難したクライマーのようなヒロイズムに酔いしれて寮での年越しを決意したわけである。
いや。本当は常に監視の目にさらされ、やれ大掃除だ、やれ障子の張り替えだなどとこき使われる教会に帰るより、ほぼ誰もいない寮で、北山と二人で好き勝手なことをして越年する方が楽しいだろうと思ったのだ。

僕たちの寮は非常にアットホームで、「家庭の経済的事情で帰省できない」と申告すると、あっさり寮での越年を許された。
舎監はしきりに気の毒がって、越冬食として袋麺や、本部のお下がりの饅頭等を沢山持ってきてくれた。もっとも防火管理上、寮ではガスの使用が認められてなかったので、ラーメン(カップヌードルじゃないよ)はタッパーウエアに入れ、熱いお湯でほぐして食べていた。

ちなみに、このタッパーラーメンと称された食べ方は、後に寮内で脚気かっけ蔓延まんえんする元凶となり、厳しく禁じられることとなる。
その後、友だちの一人が電気コンロ(電熱器)を家から持ち帰った時は、まさに「文明開化」がやってきたという感じで、全員が狂喜乱舞したものだ。しかしワット数が小さかったため、ラーメンは1食ずつしか作れず、まさに「行列のできる電気コンロ」であった。

話を戻そう。北山と僕の話の続きである。
寮生の食事の世話をしてくれる老夫婦も当然帰省してしまっており、食事は自力で何とかしなければならかった。なので舎監の厚意はとても有り難かった。まさに、脚気かっけの恐怖を内包しながらも、未来ある若者の命を繋いだタッパーラーメンであった。

さて、12月25日である。クリスマスだ。
その日の天理本通りには不謹慎にもクリスマスソングなどという異教徒の音楽が鳴り響き、ケーキ屋にはクリスマスケーキが並んでいた。天理教の門前町だというのに不敬にも程がある。などとは思わなかった。
そもそも「クリスマス)とは「キリスト(Christ)のミサ(mass)」という意味に由来するのだが、飢渇する青年のケーキへの渇望は、異教の降誕祭にまつろう背徳感をも凌駕りょうがするのだ。
当時、クリスマスケーキの値段は小さい物で1,000円とか1,500円程度だったと思う。
その日の午後、僕たちは馴染なじみのパン屋に行った。ここではいつもパンのヘタを無料で貰っていた。(卒業後、ヘタが有料になったと聞いた時、思わず「神は死んだ」と呟いたものだ)
ヘタとは、サンドイッチを作る時に切り落とすミミではない。一斤の食パンの両端部のことである。

パンのヘタ


育ち盛りの高校生である。寮の食事だけでは物足りない僕たちは、夜食としてヘタを重宝していたのだ。
その店は親元を離れ生活する我々寮生に優しく、いつも優先的にヘタを貰うことができた。寮生は等しく貧しかった。
いつものようにヘタを手渡してくれるとパン屋のオヤジが言った。
「明日の朝やったら、ケーキ半額になるで」
「え!半額てか?」
痩せぎすのオヤジがイエス様に見えた。
1ホールのデコレーションケーキが500円である。MerryChristmasと書かれた板チョコの乗ってるやつが、2個で1,000円だ。
しかし僕たちの財政は逼迫ひっぱくしていた。年が明けて寮生が戻ってくる日。つまり寮での食事が再開されるまで後2週間近くある。二人合わせた持ち合わせ総額は14,000円ほどだった。
つまり二人で1日あたり1,000円。一人500円ほどで三度の食事をなんとかしなくてはならない。自炊できない環境での1日500円はとても厳しい。そのまま食えるものしか買えないのだから、不経済なこと極まりない。
高カロリーを誇るケーキは魅力的だが、500円を費やすのは|兵站《へいたん》が断たれた状況ではあまりにも無謀だった。
袋麺のストックも先が見えていた。それに「たまには砂肝とビールで晩酌したいしなあ。」などという怪しからんことを考えていた僕たちにとっては、今後の生命維持を左右するほどの重大な選択であった。
僕は聞いた。
「おっちゃん。明後日やったらなんぼになる?」
「明後日はアカン。傷むことはあれへんけど、賞味期限切れるしな。保健所にバレたらうるさいねん」
と言うオヤジに北山が食い下がった。
「絶対誰にも言わんばい。お願いやけん。金が無かけん帰省しきらんのよオレら」
「なんや。そら気の毒なこっちゃな。まあウチの店の名前出さへんのやったらエエけどなぁ」
と小声で言うオヤジに
「ほんなら明後日くるわ!」
と言って店を後にした。
そうして翌々日、僕が1,000円札を握りしめ、北山は風呂敷をスーパーマンのマントのように背中に垂らして意気揚々とパン屋に向かった。

「おっちゃんケーキ売れ残った?」
「ああ、お前らか。ほれ、3つ残ったで。全部持ってくか?」
「三つでなんぼ?」
と尋ねると、
「あのな。ワシもこんなもんで貧乏学生から金は取れんわ。タダでやるし、腹壊しても黙っとけよ」
と、まるでアポロンの神を奉じる神官のごとき厳かな声で告げたのだった。
これぞまさにクリスマスの福音ではないか。
神だ。このオヤジは市井に棲む生ける神だと思った。
思わずアーメンと唱えて胸前で十字を切りそうになるのをこらえ、天理教式の合掌で感謝の気持ちを伝えた。
というわけで、まさに天の与えを授かった僕たちは、風呂敷に包んだクリスマスケーキを大事に抱えて店を出た。
南礼拝場正面の石畳まで来ると、どちらからともなく自然に立ち止まり、親神様に90度の最敬礼をもって御礼申し上げた。僕たちは意外と信心深かったりするのだ。
そして元気よく青年会歌を合唱しながら(何故だw)一列縦隊で行進し(何故だw)、歓呼をもって出迎える者など一人として無い寮へと凱旋したのであった。

昔のバタークリームケーキ

さあ。いよいよ狂乱のケーキパーティの時を迎えた。もはや逆上して目は血走っている。
ちなみにケーキはまったく傷んでいなかった。ただ、当時のケーキはバタークリームを使ったものがほとんどで、しかも良質のバターではなく、安い油を加えた“なんちゃってバタークリーム”が多かった。つまり胃に全然優しくないのだ。
1個目をむさぼり食った北山が、半分に割った3個目を食べている途中で気持ちが悪くなり、「食いながら吐く」という滅多に見ることのできない不思議な吐き方をした。それを見た僕も貰いゲロをした。
ゲロにまみれた二人は「吐くなボケ!勿体ないやろ!」と罵りあい、そして吐いたとき特有の涙目のままお互いを指さし大笑いした。
宴はそうして幕を閉じたのだった。

これが青春時代で最も印象に残ったクリスマスの記憶である。
省みて、我ながら馬鹿な青春時代を過ごしたものだとつくづく呆れかえるが、思い出すとなんとなく暖かい気持ちになるのも確かなのだ。
そんな思い出話をお嬢ちゃんとご両親に明かすと、ヒーヒー言いながら笑いころげていらっしゃった。

かつて、吉行淳之介は言った。

青春の時期は、いつの時代でも恥多く悩ましいものだ。もう一度やれと言われてもお断りしたい。

吉行淳之介

と。
でも僕はそうは思わない。

青春期を何もしないで過ごすよりは、青春期を浪費する方がましである。

ジョルジュ・クルトリーヌ フランス劇作家

というジョルジュ・クルトリーヌの言葉に首肯しゅこうするし、

若さが幸福を求めるなどというのは、衰退である。

三島由紀夫

という三島由紀夫の言葉に、僕は真理を見る思いがするのだ。
あ。なにも文豪や劇作家の言葉を引用して取り繕うほどの出来事でもないか(笑
でも僕にとってはたまらなく愛おしい青春の一コマなのだよ。

(おしまい)
この記事は盟友藤田一憲氏による記事『岡山寮のこと 其の1』からインスパイアされて書いたものです。
岡山寮のこと 其の1|藤田一憲 (note.com)

writer/Be weapons officer
proofreader/N.NAGAI

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