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岡山寮のこと 其の1

noteを何気なくつらつらと読んでいるうちに、現在、布教の家岡山寮に起居する布教師に出会った。
彼の記事を読むうちに、若き頃に頑張った1年間を思い起こしまして。
そして書く。
今回は、岡山寮での思い出話です。

まずは、なんで布教の家を志したのか?
それは自教会の教職舎ふしんの話しが前年にまとまり、工事は全て請負ですることになりました。当時私は独身の後継者。
さて、私は私の立場でどうやって勤めようか?と思案していて、ふと、あるおさしづが頭をよぎったんです。

にをいの事早いほがよいで。急いでやってくれ。急いでやってくれにゃならん。急いでやっても良い加減になる。残らず/\遠い所、悠っくりして居ては遅れる。この人ににをいを掛けんならんと思えば、道の辻で会うても掛けてくれ。これからこれが仕事や。

明治40年4月7日

北礼拝場ふしんに関するおさしづ。
ふしんがあるんだよ、というにをいがけは早い方が良い、これからこれが仕事や、と仰せ下さる。
そうか!ふしんと言えば「にをいがけ」なんや!俺はこれをしよう!と単純に思ってしまったんよね。

教会の皆さんに「布教の家に行ってきまーす」て。突然だからみんな「え?!」との反応でしたが、理由を説明して、ふしんのお運び願書もちゃんと仕上げます、取り壊す建物内の家財道具類などもちゃんと移動して片付けときます、1年間の時間をお供えします、てことで理解して頂き、意気揚々と岡山へと行ったんです。

じゃ、なぜ岡山?実は布教の家入寮を心定めしたのは、入寮願書受付期間が既に始まっていた時期のことで、当時人気のあった寮は定員に達していたので、ま、消去法で岡山だったんです。あとでわかったんだけど、同時期に今の撫養大教会長さんが北海道寮に入寮してたんですよ。しまった、北海道にしとけばもっと楽しくて中身も濃い1年間になったかな?て思ったり。

そんなこんなで布教の家岡山寮に1年間起居することに。第4期生。全寮のなかで一番新しい寮です。寮長は、網干系の服部初代寮長先生時代。
メンバーは社部属教会の三男さん、本島部属の長男さん(構内の人)、信仰初代の岡山部属のおいちゃん、そして私の4人。
教会後継者と定まっていたのは私のみ。

岡山寮では当時、本部派遣委員という制度を受けていた。月に一度、バリバリの布教師がやってきて我々にお話くださる。
4月。本部派遣委員さんとの初対面。
今は亡き、高田吉郎先生。梅路金澤分教会初代会長さん。
こちらの本にも載ってますよ👇

バリバリゴリゴリムキムキの布教師。
初対面でいきなり「藤田くん、君は一年間にをいは掛からないから安心しろ」と一喝。
「布教の家に何しに来た?」という高田先生の問いかけに「布教の勉強を」と、ソモサンセッパ的に模範解答を言ったつもりが、それがかえって先生の逆鱗に触れたらしい。
「・・・安心しろ。勉強のつもりなら今から修養科に行って来いッ!ここは布教そのものだ!!!」 て。
もうね、寮を辞めて帰宅しようかと思ったわ。
短気はダメよね。まぁ、月に一回2時間くらい会うだけだから我慢しよ、て思い直し、というか開き直って岡山寮生活の始まりの始まり。

高田先生のお話には寮長先生も同席される。
私たちは4期生だから、寮長先生にとっては、この高田先生の話を聞いて4年目になる。1年目、寮長先生は、やはり「ホンマかいなぁ」と半信半疑で高田先生の話を聞いていたらしい。そして、当時の寮生さんに「おい!高田先生の話を確かめに行くぞ!」と、岡山から金沢に向かい、梅路金澤分教会にトツ凸した。
高田先生の話は全部真実だったそうな。
以来、梅路金澤分教会にトツ凸するのは、岡山寮の恒例行事になった。(今はもうやってないだろうね、たぶん)

私はだんだん高田先生に傾倒した。
6月。梅雨。だんだん高田先生が来るのを待っている自分がいた。
雨の中を、先生がキターー!
約2時間のお話し。
最後に「今日は雨だなぁ。雨の日は3倍の御守護だ!今から歩きなさい」と言い残して帰って行った。
素直に歩いたわ。そしたら、なんと、後に通い先となるお宅に行き着いたんよね。
「雨の日は3倍の御守護」コレ沁みたね。

何月ごろだったかなぁ。
ある朝、寮長先生が
「おーい、今から金沢に行くよー」て、そこらへんのスーパーに買い物にでも行く感じで、突然にその日は訪れた。

みんなウキウキ。もう遠足気分。
高田先生の居城、梅路金澤に到着。高田先生ご夫妻がお出迎え下さる。寮長先生はどうやら事前に連絡を入れていたらしい。トツ凸ではなかった。
夜は激しく歓待してくださった。そして宿泊。
翌朝、あちこちからどんどん信者さんらしき方々が神殿にやってくる。近隣の飛地に、住み込みで勤める方々の宿舎というか教職舎が沢山あって、そこから朝づとめにやってきているそうだ。当時の神殿は、御本部の祖霊殿ほどの規模(と記憶している)。
朝づとめ時間前になる頃には、神殿内や廊下がぎっしりと人で埋まった。
おてふりまなびの時なんて、「ここはおやさまの御用場か?」てくらいにお歌を声高らかに唱和する。この雰囲気、これはすごい!と圧倒されたね。
朝席は、毎月岡山寮にやってきてお話し下さる時と同じく厳しい内容。
布教だ!おたすけだ!
「こんな教会、凄すぎて参考にならんわ、、」もう、すっかりと打ちのめされて金沢をあとにした私たち寮生4名。

今思えば、高田先生の毎月の厳しいお仕込みがあったからこそ、辛い時も辞めたくなった時も諦めそうになった時も、全部乗り越えて1年間の寮生活を勤め切ることができたんだなぁとしみじみと思うんよね。

「あのな、おたすけで御守護いただきたいならなぁ、親の言うとおりに勤め、親が喜ぶように勤め、親の期待に添って勤めよ。」
この高田先生からの教えは、その後約10年間ほどは守り通した。
そして、なぜ私にだけ「君は1年間にをいはかからないから安心しろ」と厳しく当たったのか。先輩寮生さん曰く。「高田先生は、何もしなくても教会長になる路線に乗っかっている後継者には厳しいよ。ある種の僻みだね」て。
なんじゃそりゃ笑笑

あ、それから、雨の日に巡り合った通い先。
あとで判明したことだが、そのお宅で一人暮らしをするおいちゃんは、とある教会の信者さんで、何年間もずっと教会とは疎遠だった方。だから、所属教会に連絡を取って再び繋がって頂きましたよ。
だから、“にをいがかかった”とカウントしなかった。相変わらずの“にをいのかからない、高田先生の呪縛”状態が続くのです、、、。

さぁーて来週は、、、
果たして藤田一憲は、帰参者のお与えがあるのかどうか?
乞うご期待!


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