100年前の随筆を読む。I read a essay written 100 years ago.

「子猫」という題名の随筆を寺田虎彦(物理学者・随筆家)は今から約百年前(大正時代)に書いています。あなたも一読すればわかりますが、どこか懐かしい匂いが漂う(旧仮名遣いを除けば)それでいて古さを感じさせない随筆です。その内容は令和時代を生きる愛猫家たちの心情を代弁しているといってもいいほどです。寺田は「子猫」を以下のように結んでいます。

「私は猫に対して感ずるやうな純粋な温かい愛情を人間に対して懐く事の出来ないのを残念に思ふ。さういふ事が可能になる為には私は人間より一段高い存在になる必要があるかも知れない。それはとても出来さうもないし、仮にそれが出来たとした時に私は恐らく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私は矢張子猫でも可愛がつて、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れ憚り或は憎むより外はないかも知れない。」

寺田が指摘するように「純粋な温かい愛情」を、猫に対して感じる飼い主は多いはずです。そのうえ私を含め、猫の世話をすることは、義務ではなくて奉仕に近いように思います。飼い主は無償の愛を注ぐといいながらも、実際には(報酬として?)結果的に、飼い猫に癒やされています。もちろん猫は「お返しに癒やしてあげます」などとは思っていませんが…。次の指摘「人間に対して懐く事の出来ない」にも納得で、それは確かに残念に思います。その原因は相手の人間にあるというよりも、自分自身にあるような気がします。どれだけ相手の人間が好きで「お世話をしたい」と思ったところで、私のような普通の人間は、やはりどこかで現実的な見返りを求めてしまいがちです。それを寺田は「超人」と「凡人」という言葉で表現しています。さらに「超人の孤独と悲哀」にまで筆を進める寺田は(さすが漱石の下で学んだ人間で)ただの学者ではありません。「凡人の私は矢張子猫でも可愛がつて」は、そのまま私のことを書いています。凡人の私はやはり猫でも可愛がって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れ…、世の中のあれこれに思い煩い、白いnoteを駄文で埋めるよりほかはないかもしれません。

追伸

「子猫」の初掲載は大正12年雑誌『女性』プラトン社刊、再掲載は昭和30年単行本『猫』中央公論社刊、再々掲載は平成16年単行本『猫』中央公論新社刊(クラフト・エヴィング商會プレゼンツ)です。そうやって掲載を繰り返して、約百年も前の随筆が読めるというのは奇跡のようなことかもしれません。作者、出版社、編集者の皆さま、ありがとうございました。ちなみに私は平成16年の単行本で読みました。他にも、猫に関する随筆といえば『日本の名随筆3 猫 阿部昭編』(昭和57年作品社刊)も一読の価値ありです。


この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

もしあなたが私のnoteを気に入ったら、サポートしていただけると嬉しいです。あなたの評価と応援と期待に応えるために、これからも書き続けます。そしてサポートは、リアルな作家がそうであるように、現実的な生活費として使うつもりでいます。