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黒猫中隊~冷戦&米中関係に翻弄された台湾空軍のアンサング・スコードロン①

こんにちは、黒熊です。

今回初回記事を執筆するにあたり、自己紹介を兼ねハンドルネーム「黒熊小隊」の由来である、かつて台湾空軍に存在した極秘部隊「黒猫中隊」(くろねこちゅうたい/こくびょうちゅうたい)について解説していきたいと思います。
因みに、猫好きな私は黒猫(※保護猫)を飼っていることもあり、この部隊名称や部隊章に惹かれ興味持つようになりました。

黒猫中隊とは?

「黒猫中隊」の正式名称は中華民国空軍(ROCAF) 第8航空大隊 第35中隊です。この部隊は表向き「空軍気象偵察研究組(班)」という呼称で知られていましたが、米国で開発された高高度偵察機「U-2 “ドラゴン・レディ”」を装備し、秘密裏に中華人民共和国領内の軍事基地や核施設、ロケット・ミサイル発射場などの偵察任務を担っていました。

黒猫中隊 部隊章(Wikipediaより)

部隊は、1962年~1974年の12年間にわたり中国本土への偵察活動を行い、期間中約220回の極秘偵察ミッションを遂行しました。その過程で5機が中国人民解放軍(PLA)に撃墜され4名のパイロットが戦死、2名が捕虜になるなど多くの犠牲を払いつつも、当時「竹のカーテン」に包まれていた中国本土内の軍事情報を明るみにするなど、多大な貢献を果たしました。

CIA秘蔵の偵察機「ドラゴン・レディ」

「U-2」通称“ドラゴン・レディ”は7万フィート(2万1千メートル)の高高度を長時間にわたって飛行し、偵察カメラをはじめとする各種機器を搭載して撮影や情報収集ができる特殊な偵察機です。1955年の初飛行以来、延べ104機が生産されましたが、人工衛星による偵察が普及した現在でも、電子・光学センサーの発展に伴い、より近距離・広範囲の情報収集が可能という利点があるため、エンジンやアビオニクス機器をアップデートさせつつアメリカ空軍が運用し続けています。

「U-2」開発経緯を遡ると・・・1950年代の冷戦真っ只中、偵察衛星がまだ開発されていない時代。当時ソ連の核兵器開発や共産圏各国における兵器配備状況などの軍事情報を収集する手段は航空偵察が主流でした。共産圏のスパイ活動を主導するアメリカ中央情報局(CIA)は潤沢な予算を背景に、要撃戦闘機が到達不可能な高高度でソ連領内奥深くに侵入し、重要な軍事施設を撮影して帰還可能な偵察機の開発を決定しました。実機開発には、ロッキード社(現ロッキード・マーティン社)の極秘開発チーム「スカンク・ワークス」が携わりました。

U-2は米空軍で運用中で、2050年頃まで使用される見通し

1955年初飛行後、直ちに実戦投入されたU-2は、主にソ連の弾道ミサイル配備状況を偵察する任務に就いていましたが、ソ連側の高高度迎撃能力が向上し、遂に1960年5月、S-75(SA-2 ガイドライン)地対空ミサイルによって撃墜され、パイロットのフランシス・ゲーリー・パワーズ大尉がソ連当局に拘束される、所謂「U-2撃墜事件」が発生しました。
また1962年、米ソの対立と緊張が最高潮に達した「キューバ危機」では、U-2によるキューバへの偵察飛行で得た情報が、ソ連による中距離弾道ミサイル配備の証拠となりました(この任務でも、U-2はにS-75により撃墜され、パイロットが死亡しています)

毛沢東の「両弾一星」を暴く~黒猫中隊の誕生

1950年代、米ソ両国の熾烈な核兵器・ミサイル開発競争を目にした中華人民共和国・毛沢東主席は、自国独自に原水爆・弾道ミサイル(両弾)および人工衛星(一星)を開発する「両弾一星」プロジェクトを開始。これら計画推進によって中国は、1964年初の原爆実験を成功させ、続く1967年には水爆実験を成功。更に1970年人工衛星「東方紅1号」打上げに成功し、1971年には国産ICBM「東風5号」発射に成功するなど成果を積み重ね、米ソに追随してきました。
(以下、中国初の核実験時の映像-Youtube)

一方、国共内戦に敗れ台湾に逃れた後、中華民国として台湾を実効支配する国民党政権・蒋介石総統は「国光計画」を立案して中国大陸への再上陸・反攻を目論み、中国が進める「両弾一星」を脅威とみなすようになりました。そのため中国の核兵器・ロケット開発や、戦力の配備状況を把握できる偵察能力を欲していました。米国も同様で、ソ連に次いで核兵器やミサイル技術を急速に発展させつつある中国本土への偵察活動の必要性を感じていたものの、度重なる撃墜事件により、自国の機体とパイロットを喪失するリスクから二の足を踏む状態でした。

当時のこうした背景から、米国と台湾(中華民国)両国の思惑が一致し、1954年に米台両国間で締結された「米華相互防衛条約」に基づく軍事支援の一環として、米国が保有する偵察資産が台湾へ供与されることが決まりました。具体的には「U-2」偵察機を台湾空軍へ供与すると共に、メンテナンス・整備要員を派遣。作戦任務運用は台湾空軍が実施し、中国本土で偵察し獲得した情報は米国と共有する、というものです。

かくして1958年、台湾空軍第8航空大隊隷下に、名目上高高度“気象観測”を主任務とする第35中隊「空軍気象偵察研究組(班)」通称「黒猫中隊」が桃園空軍基地に創設されました。
当初マーティン社製 RB-57D「キャンベラ」を運用し、中国大陸・新疆ウイグル自治区ロプノールの核実験場へ高高度偵察任務を行っていたものの、片道約2,700km行程という長距離飛行任務遂行を遂行する上で、同機の能力不足が問題視されたため、対策として直ちにU-2の供与が決定しました。

U-2搭乗のため、台湾空軍内の飛行時間1000時間を越えるパイロットが選抜され、米本土の空軍基地で同機の完熟訓練を受けました。1960年7月、2機のU-2が台湾空軍桃園基地に進駐。併せて「分遣隊H」と呼称される、同機のメンテナンス・整備支援部隊が米国から派遣されました(※要員は、表向きロッキード社の民間従業員とされていた)そして1962年1月よりU-2による作戦任務運用が開始され、ロプノールの核実験場や、甘粛省の弾道ミサイル実験場への偵察飛行を行うようになりました。
黒猫中隊の運用するU-2機体外観は、米空軍機と同様に全面ダークブルーないしブラックで塗装されていましたが、胴体左右側面には台湾空軍国籍マーク「青天白日」が施されていました。

台湾空軍の「青天白日」国籍マーク(Wikipediaより)

なお「黒猫中隊」命名の由来は・・・

U-2の黒い機体と、暗闇の中を高高度偵察飛行する任務特性が”忍び歩く黒猫”を想起させる点、それと隊員達が行きつけにしていた桃園基地付近の店舗が「黒猫(Black Cat)」の名を冠していた事による、とされています。

それじゃ、今日はこの辺で。RTB.(②へ続く)


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