見出し画像

「常識」再考

今、常識の力が弱まってきていると感じています。

その常識という、すっかり手垢がつき「打ち破るべきもの」の対象とさえなりつつある概念を判断の根拠とする必要が出てきているのにも関わらず弱まっていくばかりです。

現代社会、価値観は多様化してきており、大多数が共用できる「常識」といったものは姿を消しつつある、と思い込んでいました。

でもよく考えてみれば、現代はなにも価値観が多様化しているのではなく、単に情報が膨大になっただけ。

現代人は何に価値があるのかわけがわからなくなっており、とにかくシンプルな何かにすがりつきたいという人が増えているのじゃないでしょうか?

ゆえに今こそ、「常識」というあいまいなものを拠りどころとすべきなのかも。

「常識」って、全然シンプルじゃないですから(^^)

でも、「常識」を保持するのには、知性の更新・バランスチェック・自己点検・周囲の観察などなど、かなり多方向へのコスト、つまり絶ゆまぬ手間ひまがかかりそうな気がします。

「常識」とは、知性と教養を足がかりに、部分ではなく全体を把握する直観能力に裏づけられだと思います。

ただ、この直観が偏見ではないかどうかをチェックするのが「倫理」というやつでしょう。

つまり、「常識」がうまく機能しているときには、倫理は問題にはならないはずです。

まわりを見わたせば、今の日本の社会はまさに「貧すれば鈍する」状態^^;

経済偏重の度が過ぎて、「経済的危機」即「生きざまの危機」のありさま・・・・・・

これからは、倫理性を成熟させて「貧すれども鈍せず」へ、宗教性を成熟させて「そんなところに人生の価値はないもんね」へ、という生きざまへの転換が必要に違いありません。

さて、目を世界に向けてみると、世界では「宗教=常識」という文化がすくなくありません。

そこでは、宗教が違えば「常識」も違ってしまいます。

しかし、複雑多様化した成熟社会や世俗社会では、そんな単純な図式にはなり得ません。

世俗社会においては、宗教体系と日常生活のバランスを量るてんびんの役目を「常識」が果たすのかもしれませんね。

日々発生する事件の中で宗教的確信をもつことが倫理的なふるまいを妨げているという状況をしばしば目にします。

そういえば、オルポートが提出した有名な調査結果に、「熱心に教会へ通っている人ほど、人種差別意識が高い」というものがありました・・・・・・

このことは、枠内への態度と枠外への態度を自覚する節度を欠くことが要因のひとつとなっているのでしょう。

我々は、枠外に対しても、自分の確信をふりかざすような宗教的考えでは、社会と共存できていないと思います。

柄谷行人氏は、「『歎異抄』の第三条や第十三条を取り上げて『自由な意思でやっていると一般に思っていることが、そうではなということ。といってもそれは自由の否定ではない。その逆に、真に自由であれといっているのだ。つまり、自由などないと考えたとき、はじめて倫理的(自由)な行為が成立する」と言います。

さらに、『普通なら、自分の意思だ、と片づけてしまうところをそうしない。不透明なままなんだけど、自問し続ける』というところに注目しています。

また、親鸞は、「自分の意思や努力で善き状態を保っているのではないぞ=決してこの状態は当たり前じゃないんだ」ということの自覚を臨終まで持続させることを説いています。

極端な例かもしれませんが、縁があれば何人でも殺してしまう、殺していないのは自分が善い人だからではない、このことの自覚こそが倫理の基盤だと思います。

だからこそ、無限のイマジネーションは、このような方向性にこそ活用せねばなりませんね。

状況によってはどのような悪にも手を染める、自分が善だから悪を回避できているのではないということでしょう。

アイヒマン・テストの例を持ち出すまでもなく、状況によっては背筋も凍る行為をなすのが私達です^^;

ただ因や縁によって成立した行為だから、倫理的責任が自分にないのではないと言うことですね。

自らの業として引き受ける、つまり縁によって成立した行為だからこそ、自らが選択した行為であるという自覚がなければなりません。

このような「縁」や「自由意思」とのあいまいさを、私達はなかなか意識できないで生活しているのが実態なんでしょうね。

要は、決然たるあいまいさ、すなわち、どちらの側にも落ちる可能性を抱えていることの自覚なしで倫理は成立しないと思います。

そう、道理を引っ込めて無理が長続きしないことは、自明の理だとも思います。

自身の無知と被投性の自覚が大切なんですね(^^)

話は変わりますが、現象学という学問があります。

フッサールが体系づけた、たいへん精密にできた、いわば「哲学のハイテク・ツール」のようなものなのですが、このたいへん切れ味のよいツールの基本にあるのは、「私が見ている世界はありのままの現実ではない。けれども、この現実以外に、私が世界に接近する回路は存在しない」という知性の節度です。

私達が「客観的に実在する世界」だと信じている私達の世界は、主観的な仮象である可能性を常に伴っています。

私達は脈絡ある夢を見ているかも知れないし、発狂しているのかも知れませんよ(^^)

誰の目に見える世界も、十全な明証性に基礎づけられてはいません。

どんな人間の経験する世界も、世界そのものではありません。

しかし、たとえ私に見える世界が、「実在している世界」そのものの実相であるという権利が私にはないとしても、「私にとっては、世界はそのように見える」と言明することは許されています。

そして、「私はそのように見えている」という事実以外に、客観的世界に接近する回路は存在しません。

そこまでの同意がとりつけられれば、次は、「私には世界がこのように見え、あなたにはそのように見えないらしい。ではいったい、その差はどういう要因に規定されて出てきたものなのだろうか?」という問いを立てることができます。

つまり、お互いが思っている「程度の差」を精密に計測できるということこそが知性の試金石だと思います。

また、「ではいったい・・・・・・」という視座の繰り上げのことを「科学性」と言ってもよいかも知れませんね。

そして、私達が共有する基盤がこのような程度の差を含んでいる以上、「ねじれたもの」であるがゆえに、私達の対話があらゆる点で意見の一致を完全にみるこということもまた構造的にはありえないというのが、対話のダイナミズムであるように思います。

ここまで長々と書きましたが、言いたいことは以下の言葉で言い換えれるかな?(^^)

わかるけど、わからない。

わからないけど、わかる。

あるいは、わかるから、わからなくなる。

わからないから、わかりあえる。

なんだかんだと言っても、そういうことじゃないかと思います(笑)

Half empty or half full.

発想の転換で世界はいくらでも明るくなる♪

そう!

み~んな悩んで大きくなっていくんだもんね!!

この記事が参加している募集

#最近の学び

181,685件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?