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「マウントが得意な人の特徴」_ロジラテ思考

最近マウントという言葉を耳にします。

意味を調べてみると、相手を言い負かせて自分が優位に立っていること認めさせることだと言います。

つまり、自分が有利になる事で相手を打ち負かすということです。

たしかに様々な人達と議論した時、自分の立場が危うくなると問題の本質から自分の領域に話をすり替えて、マウントをとろうとする人達が増えているように思えます。

なぜそう感じるかというと、こんな発言を聞くからです。

「なんで俺が怒られなきゃいけないの?」
「それは、貴方の場合だからでしょ? 私と貴方とは違うんです」
「あなたは成功者だからですよ。今と昔とは違うんです。」

この発言は、
「貴方の領域で話しても埒があかないから、私の領域で話しましょう?」
と聞こえてきます。

もっと本音に踏む込むと
「貴方の言っていることは難しくて分からないから、私のわかる領域で話しましょう」
とも聞こえます。

今日は、このマウントについてお話したいと思います。

1.マウントの原点はなんだろう?


マウントの語源は格闘技で、相手が身動きがとれない状態にすることです。

しかし議論にマウントを取り入れると、途端におかしなことが起こります。

議論の目的は成果を上げることですが、議論に勝った負けたに焦点を充てて間違った結論を導き出してしまったら、、、成果など生まれるはずもありません。

つまり「マウントを獲った!」と喜んでも、なんの意味もありません。

2.論破とマウンティングの違い


先日 禅寺で修行する修行僧の動画を見ました。

悟りをひらくことを目的に、修行僧達が山寺に籠もって座禅や作務、禅問答などの修行をしていました。

禅問答とは、修行僧が考えた問題に老師が答えるという修行です。

【修行僧】
「私は〇〇年修行していますが、いまだに心眼ができません。」 
「このまま修行しても、悟りの境地に辿りつけますでしょうか?」

【老師】
「見ようとすれば見える、見ようとしなければ見えない」 
「悟りの境地は、求めてはならない。求めなくとも足元にあるでないか」

まさしく禅問答。
最初「この人達は何言ってるんだろう?」と思ったのですが、数人の禅問答を聞くうちにあることに気づきました。

それは、すべての修行僧の目的は「悟りひらく」ことで、彼らの質問は二つに集約できました。

 ・悟りの境地を得るために、どうしたらよいのか?
 ・悟りを開いた後、世の中の安寧をどのように願えばよいのか?

禅問答の目的は勝ち負けではなく、悟りを目指した修行の中で、間違った解釈を老師が論破し正しい道を示すことで、勝ち負けを目的としたマウントをとることではありません。

つまり
論破とは、目指す姿に到達することを目的とした議論
マウントとは、自己承認欲求を満たすことを目的とした議論

ではないでしょうか?

3.なぜ人はマウンティングしたがるのか?


わたしには息子が二人います。

彼らと話し合っていると、都合が悪くなると私に対してマウントを獲ろうとして話がどんどんブレていきます。

考えてみれば、人生経験や知識知見は私の方が圧倒的に豊富ですから、マウントするつもりがなくても、息子達が「マウント獲られた!」という気持ちになるのも分かります。

「なんで俺が怒られなきゃいけないの?」
「それは、貴方の場合だからでしょ? 私と貴方とは違う」

つまり、目的が「成果を上げる」から「私のことを分かって!」という自己承認欲求に変わってしまいマウントを獲る行動に向かわせるのではないでしょうか?

議論がマウント合戦にならないようにするためには、話し手が常に次の二つのことを心がける必要があります。

・相手の自己承認欲求を満足させてあげること
・目指す姿を、事あるごとに確認しながら議論する。

これ。。。インナーコミュニケーションの基本ですよね?
それにしても、、、、あぁぁ 面倒くさい! 笑い


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