見出し画像

【[HORIZONTES]誕生までの軌跡】

今日は先日配信が始まったばかりのキューバ人シンガー、MARLEN(マルレン)のアルバム[HORIZONTES]をご紹介します。このCDが発売されたのは2001年の秋でした。個人的に深い関わりと思い入れのあるアルバムですが、残念なことに10年以上前に絶版となってました。しかしこの度、関係各所との調整が終わり、晴れてみなさんにご紹介できることになりました。このCD制作についてはとても興味深い話がたくさんあります。興味のある方は是非ご一読ください!

配信サイトはこちら↓

【[HORIZONTES]誕生までの軌跡】

MARLENは1994年に女性だけのサルサバンド[Orquesta Canera]のボーカルとして初来日し、当時新宿にあったビアレストラン[COCO LOCO]に帯で出演していました。日本滞在中に杉本さんという男性と知り合います。(通称「モモトンボ」以下その呼び方で統一します。)

そのモモトンボさんがこのアルバムのエグゼクティブ・プロデューサーです。MARLENはCaneraを脱退してソロシンガーになります。そしてモモトンボさんと結婚して日本に住むことになります。彼らと知り合ったのは1999年頃です。当初はMARLENがライブ活動をするためのバンドメンバーとしてのお付き合いでした。当時のバンドメンバーは僕がベースでピアノが斎藤タカヤ、パーカション山北健一、そしてトロンボーンが相川等でした。みなさん今も大活躍されている方々ばかりですね。

モモトンボさんとは妙に馬が合い、よく飲みに行ってました。ある日モモトンボさんから1枚のCDを渡されました。「以前キューバで作ったMARLENのCDなんだけど、聴いてみて感想をきかせてほしい」とのことでした。モモトンボさんには既に[Grupo Chévere]やその他僕がプロデュースしたCDを何枚かプレゼントしていたのですが、彼曰く「なんでこんなに音がいいの?ミックスも素晴らしい。自分がキューバで作ったものと全然違うんだけど、どういうこと?」でした。僕は彼にこう答えました。「キューバの現状ではこれが限界だと思います。理由はいろいろあるけど、一つは単純にレコーディング機材の問題、そしてエンジニアの経験値などですかね」

僕が初めてキューバに行ったのは1990年、そして翌1991年には[Grupo Chévere]で1ヶ月にわたるツアーを敢行しました。演奏がない日には、いろいろなバンドのライブに行ったり、レコーディングの見学をしたりと、多くの貴重な体験をしました。個人的にはキューバのレコーディング事情にとても興味があったので、レコーディング機材やエンジニアの一挙一動を目を皿のようにして見させてもらいました。

キューバでは、生活物資をはじめ全てのものが「常に不足」しています。基本的には今も昔も変わってません。91年当時の状況としては、ボンゴの皮の代わりにレントゲン用のフィルムを張ってたり、ティンバレスのスティックが左右長さの違う木の枝だったり。一番驚いたのは、とあるバンドのベーシストが、切れたベースの弦を無理やりつなぎ合わせて使っていたことです。彼は僕に切実な思いで「日本に帰るときに君のベースに張ってある弦を外して僕にくれないか」と言いました。僕は「もちろんいいよ」と言って予備に持っていた新品の弦を1セットプレゼントしました。そんな状況のなかでも、圧倒的な演奏力でご機嫌な音を出すキューバ人は本当にすごいと思いました。

物不足はキューバのスタジオも同様で、古い機材を直しながらなんとか使っていました。マイクもヘッドフォンもぼろぼろでした。90年代初頭には日本でもデジタル化が進んでいて、ほとんどの業務スタジオではSONYのPCM-3348というデジタルの48トラックレコーダーを採用していましたが、キューバで一番のEGREMスタジオでさえ、まだアナログの24トラックレコーダーでした。2インチ(約5cm)幅のオープンリールのテープを使います。(写真参照)

たまたまレコーディングスタジオを見学した時に、当時の人気バンド[Opus13]がレコーディングをやってました。なにげにオープンリールが入っていたケースを見ると、中にたくさんのトラックシート(どのチャンネルになんの楽器が録音されているか書いてある)がありました。いろいろなバンドの名前が書かれたトラックシートが何枚もあったので、不思議に思ってエンジニアに聞くと「録音が終わってレコードかCDになったら次のバンドがこのテープを使ってレコーディングするの」と言うではありませんか。衝撃のあまり椅子から転げ落ちそうになりました。つまり新しいテープがないから「使い回す」と言うのです。アナログテープは録音すると前に録音してあった音は消えてしまいます。つまり数々のバンドの名演が次々に消えてしまい、原盤は残らないと言うことです。

2000年の夏頃にモモトンボさんからある相談を受けます。「MARLENのセカンドCDを作りたいんだけど力を貸してくれないかな。キューバでキューバ人が演奏したものを、日本で伊藤くんがミックスしたら面白い作品になると思うんだけど、どうかな?」というものでした。確かに企画としては面白いけど、結構ハードル高いなぁと思い「もちろん最終的に費用を出すのはモモトンボさんなので、プロデューサーの言うことには誰も逆らえないのは事実だけど、向こうのエンジニアは多分嫌がると思いますよ」と僕が言うと、「それはわかってる。その時は話がこじれないようにうまくやるから。それから音楽監督はMARLENの弟のアルベルトがやるんだけど、事前に伊藤くんのことは話してあるし、全面的に協力してくれると言ってたから大丈夫。」との答え。ということで、2001年3月にキューバでレコーディングすることが決まり、プロジェクトはスタートしたのでした。

そこから半年かけてキューバと日本の間で綿密なやりとりを繰り返すことになるのですが、プロジェクトが始まってすぐにモモトンボさんが「伊藤くん、1曲オリジナルを書いてくれない?キューバ人が書いた詞に日本人が曲を付けてそれをMARLENが歌うの、面白くない??」と言い出します。この人どんどんハードル上げてくるなぁ、思いながらも、滅多にない話だし面白そうだからやりましょう、ということでオリジナルを書くことに。そしてもう一人、MARLENのバンドで一緒だった相川さんにも作曲を頼むことになりました。Pedro Romeroという当時人気急上昇中の作詞家が書き下ろした歌詞に僕らが曲をつけて、キューバ+日本合作の2曲[Canción a la flor](伊藤寛康作曲)と[Al Viento](相川等作曲)の2曲が生まれました。

年が明け2001年に入ると、いよいよ準備も慌ただしくなってきました。「キューバに何を持っていくのか」が、このレコーディングの成功の鍵を握っている、と僕は思っていました。モモトンボさんに「新品の2インチアナログテープを3つ買ってください。それをキューバに持って行って、そのテープに全て録音します。何かあってもキューバのスタジオにあるテープは使っちゃだめです。それを使ったら日本に持って帰れませんからね。絶対ダメですよ」と念を押しました。モモトンボさんは伊藤くんが必要だと思うものは全部用意するから、と言ってリクエスト通りに揃えてくれました。その他にマイクやケーブル類など持てる限界までスーツケースに詰めて準備完了。いよいよキューバへと旅立つ日がやってきました。

成田空港でチェックインをすませると、モモトンボさんは脇目も振らず「免税店」に向かって行きました。ミュージシャンもたくさんいるし、お土産買も大変だな、とは思ってましたが、想像を超える量の「お土産」にびっくりしました。「香水」とか高級そうなものがいっぱいあるし「こんなもの必要なんですかぁ?」と聞くと「まあね。」とニヤニヤするモモトンボさん。何はともあれ、経由地のメキシコに向かい飛行機は飛び立ったのでした。

モモトンボさん曰く「メキシコにレスラーの友達がいるので彼を訪ねる」ということで、メキシコには2日間滞在することになっていましたが、メキシコに到着した我々は早速「税関」で足止めを喰らいます。荷物の中にあるマイクや音響機材、2インチアナログテープが怪しまれたのでした。違法な物ではないのでただの「なんくせ」なんですが、それでも没収などされたらたまりません。モモトンボさんは税関職員となにやら話をしてましたが、ものの2、3分で「問題いなので通って大丈夫だって」と話をつけてきました。どうやって話をつけたのかはわかりません。笑

2日間のメキシコ滞在の後、いよいよキューバに入国です。予想通りというか想定内というか、我々はまたもや「税関」で足止めを喰らいます。理由はいうまでもありません。しかし、今回はキューバ音楽協会の会長が迎えに来てくれていたので、難なく入国できました。そして、その足でキューバ音楽協会の事務所に向かい、レコーディングの概要を説明しました。「社会主義国で仕事するって、いろいろ大変なんですね。」と僕が言うと「そうね。でも大丈夫。会長(女性)の好きな香水買ってきたし」と言って袋の中から香水を出して会長にプレゼントしました。会長は満面の笑みを浮かべ「素敵な作品になると確信してるわ」と上機嫌。香水の威力かどうかは定かではありませんが、キューバ音楽協会の全面的な協力を取り付け、翌日から無事にレコーディングが始まることになります。

翌朝、キューバを代表するスタジオ[EGREM]に到着。音楽監督のアルベルトが僕らを出迎えてくれました。年齢が僕と同じこともあって、最初から意気投合した僕たち。そうこうしているうちに次々にミュージシャンが集まって来ました。アルベルトが集めたミュージシャンはオルケスタ・アラゴンのLázaro Dagoberto(Violin),Eduardo Lubio(Flute),元シンテシスのJosé Bustillo(Guitar),元イサックバンドのMariano(Conga)など、そうそうたる顔ぶれです。モモトンボさんが全員に僕を紹介してくれました。みんな暖かく受け入れてくれましたが「彼が日本でミックスする」と言った時はやはり、その場の空気が微妙に変化したのを感じました。特にエンジニアのオレステスは複雑な表情でした。でもみんな陽気なキューバ人、レコーディングは順調に進んでいきました。

一番右が音楽監督でMARLENの弟のアルベルト

日本から持っていったマイクや機材はかなりの威力を発揮して、音のクオリティを格段に高めました。ここ何年も新品の2インチアナログテープを見てない、とエンジニアのオレステスが目をキラキラさせていましたが、録音が終われば日本に持って帰ることを考えるとちょっと複雑な気持ちでした。

このレコーディングでアルベルトとモモトンボさんは、キューバ+日本合作の2曲の他に、密かにもう一つの「目玉」を画策していました。レコーディング4日目の終わりにアルベルトはベースのOsumaniに「明日の1曲目はイトウくんがベースを弾くから1時間遅く来ていいよ」と言ったのです。えっ、そんなの聞いてないよ、とビックりした顔をしていると、そこにいた全員ニヤニヤしてました。「ということなのでよろしくね」といいながら僕に譜面を渡すアルベルト。もう断れる状況ではありませんでした。笑

翌日、スタジオに行くとその日のレコーディングに関係ないミュージシャンまで「見学」に集まってました。みんな僕のプレイに興味津々な顔です。やりにくいなあと思いながらもレコーディング開始。曲はキューバを代表する女性コンポーザー、マルタ・バルデスの名曲[Llora]です。たまたま練習用にフレットレスベースを持って行ってたので、それで録音したのですが、アルベルトのアレンジとフレットレスの音色が妙にマッチして、とてもいい仕上がりになりました。もともと大好きな曲だったので、気持ちよく演奏できたことも幸いしたと思います。アルベルトの粋な計らいで、このCDに素敵な「足跡」を残すことが出来ました。

僕が1曲ベースを弾いてからは、他のミュージシャンの態度が一変して距離がぐっと縮まった感じでした。「彼らが伊藤くんを認めたってことだよ」とモモトンボさん。「全てのキューバ人がそうだとは言わないけど、日本人=お金と思ってる人も多い。日本人のミュージシャンがキューバに来るとすぐに『レッスンしてあげる』と言って近寄ってくるでしょ。つまりそういうこと。でも本当の意味で心を開くと態度が変わる。例えば、ここに集まっているミュージシャンはみんな、僕がギャラを渡そうとすると『MARLENの為にやってることだからお金はいらない』って言うんだよ。もちろん無理やり渡したけどね。そう言う意味で彼らは伊藤くんに心を開いたっていうこと。まあそうなるとは思ってたけどね。」とニヤニヤするモモトンボさん。

あっという間に2週間が過ぎて、日本に帰る2日前にレコーディングは無事終了。最終日はMARLENの実家で盛大に打ち上げの予定です。その日の朝、モモトンボさんが僕の部屋にやってきて「ちょっと面倒なことに。。。」と困り顔。「オレステスが『やっぱりミックスは俺にやらせてくれ』って言ってきたよ。残りの1日で10曲ミックスは無理だと言ったんだけど、できるって言うのよ」と苦笑いのモモトンボさん。僕は「マスターテープは持って帰るんだから、今日1日は彼のやりたいようにやらせましょう」と答えました。

MARLENの実家では大いに盛り上がり、午前0時を回ってそろそろお開きという頃に、オレステスから「ミックスが終わった」と連絡がきました。じゃあ聴きに行こう、ということでみんなでスタジオへ。ミックスされた音源は、自分の基準からすればお話にならないものでしたが、オレステスは「これなら使えるでしょ」と自信ありげ。なんて答えようか考えていると、モモトンボさんが「伊藤くん、自分がミックスしたCD持ってるでしょう。それを聴いてもらったらいいんじゃない」とナイスな突っ込み。そして、CDを聴いたオレステスは納得した様子で「これは素晴らしい。今回の録音が伊藤くんのミックスでどんな仕上がりになるのか楽しみだ」といって僕の手を強く握りました。その横でモモトンボさんが、せっせとマスターテープを梱包していました。笑

翌日、『期待を込めて託された』マスターテープとともに帰国の途につきました。

日本に帰ってからまずやらなければいけない作業は、アナログテープからデジタルのデータに変換することです。ここでもモモトンボさんは、僕のリクエスト通りにハイスペックなDAコンバーターをレンタルしてくれて、元の音を忠実にデジタル化することができました。そしていよいよミックス作業開始です。神奈川県内のスタジオで2週間かけて丁寧に作業は進められました。エンジニアをやってくれたのは、これまでも多くの僕のプロデュース作品を一緒に作ってくれた上月さん。僕のものすごく細かい要求にもかかわらず、忍耐強く作業をこなしてくれました。そして、2週間後に作業終了。ジャケットデザインやその他もろもろの作業を経て、2001年9月に[HORIZONTES]は日本とキューバで同時リリースされました。

普通であればここで話は終わりますが、CDリリース直後に予想外の展開を見せます。いくつかの音楽関係誌にCD評が掲載されたのですが、ラテン音楽関係では割と有名な評論家が書いた記事で[HORIZONTES]が『酷評』されていたのです。記事の内容を要約すると、音の仕上がりがキューバらしくなくキューバファンには受け入れられそうにない、というものでした。居酒屋でモモトンボさんとその記事を読みながら「この人、音が悪いのがキューバらしいと思ってるんですかね。愚かですね。」と、この記事をネタにさんざん盛り上がりました。それもそのはず、リリース直後にキューバから届いた反響はどれも「素晴らしい」というものでした。アルベルトは「オレステスが絶賛してた。いつか自分もこういうミックスがしてみたいと言ってたよ」と伝えてくれました。さらにその直後、アルベルトから「このアルバムから4曲同時にキューバのヒットチャートにランクインしてる」という嬉しい知らせが届きました。

あれから22年、今ではキューバで作られる音源もすばらいいクオリティになり、当時の「キューバらしい」ものはありません。笑

懐かしい思い出です。

そんな思い出がたくさん詰まった[HORIZONTES]を是非みなさんにも聴いていただきたいです。終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?