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世界は「この物語はフィクションです」で出来ている。

こんにちは。ムラカミリョウです。

予定が何もない日曜日を迎えております。
というのも、先週韓国へ旅行に行ってましてその時に自分のカメラ機材を落としてしまいぶっ壊してしまって・・

修理に出してみたのですが、どうやら新しい物を買った方がよさそうということになり撮影依頼をお断りせざるを得ませんでした。

機材は7年くらい連れ添った相棒なので感謝と共に家に飾っておこうと思います。(おすすめのカメラとかあったらコメントで教えてね!)

さて、そんなこんなで休みになったので最近読書できてなかったなと思い急遽本屋さんへ向かうと読みたい本が色々とあって黙読dayとすることにしました。

その中で出会った一冊。
自分とかないから。」が超絶面白かったので、感想と共にまとめていこうと思います。

詳細は読んでからのお楽しみ!って感じなんですが、どんな本かというと
著者が32歳の時に無職・離婚の中で布団の中で出会った虚無から逃れるべく出会った東洋哲学がスゲエから紹介するぜ!ってノリの本です。

東洋哲学の哲学者であるブッダ。ブッダが開いた仏教。
特に無信仰でクリスマスとお正月にカレーを食べてしまう僕にとって「仏教」という言葉は聞いたことあるけど中身なんだっけ?な状態。

でも、この前地元の先輩が「仏教マジでいいよ!!」と言っていたので興味は持ってた状態でした。(何がいいのかは教えてくれませんでした)

で、仏教とは?みたいなことをいきなり勉強しようとすると専門書とか専門家とかが難しく喋ってくると思うのですが、この本は著者が初心者でもわかりやすいように絵とかめっちゃ使ってくれて言葉も噛み砕いてくれてるので、、

まず最初から最後までちゃんと読もうと思った、です。
(これめっちゃ大事とおもう)

あと、日常で言語化できない現象が仏教に当てはめるとすんなりするじゃん!という気づきもめちゃめちゃ与えてもらえました。著者のしんめいPさん最高!!

僕が気になった、これは覚えておいた方がよい考え方だな、というのをいくつかまとめていきます。

自分とか、ない


著書のタイトルでもある「自分がない」ってどういうことか。

端折って説明しますと・・・

僕らって食べた物でできてますよね。
鶏肉を食べたら体の一部に鶏肉が取り入れられる。
つまり、鶏肉=自分(の一部)とも言い換えられる。

同じように鶏も「虫」とか「草」とか食べてます。食物連鎖ってやつです。

なので、自分=鶏であり、虫であり、草であるということ。

まとめると、この世の全ては自分と循環していて繋がっていて「これが自分」と言えるものって実はないということが言えます。※この境地を「無我(むが)」と言ったりするそうです。

「自分というものがない」という前提なので、
自分というものを形成しようとするとそのギャップに苦しむ。

自分というものを勝手に定義してしまったがゆえに、変わっていく自分を受け入れられないから苦しみが生じるって難しく聞こえますけど、老いとかまさにそうですよね。

若い頃の「俺」が「俺」だと思っているから、
運動できなくなってくるのも、太っていくのも、白髪が増えてくるのも苦しみになっていく。 
(アンチエイジングという言葉自体が仏教と反してるんだなあ)

ブッダが開いた無我(自分なんて変わるから存在しないよ)の境地こそ涅槃(ねはん)という最高に気持ちい境地なんだと。

ここが導入の部分なんですが、もうすでに引き込まれません???
ここからもっと凄いです。

ブランディングを見破れ

この世界は全て「空(くう)=フィクション」という仏教のおしえ。

この世は全てフィクションである、という大胆な考え方だなあと思う一方で、たしかに世の中「存在してるもの」と「存在してないもの」って曖昧だよなあ。

この本の中ではミッキーマウスを例に出してるのですが、まさにミッキーマウスは「存在しているようで存在してない」代表格と思います。この絶妙な感じが「空」なのだと。

加えて、

この世界はことばの虚構から生じている

宝行王正論1-50

というパンチラインも飛んできます。

これを読んで咄嗟に思いついたことをツイートしました。

目の前の人が「代表取締役」であろうが「エグゼクティブクリエイティブプロデューサー」であろうが「神」であろうが、それらはまた別の他人が付けた呼称に過ぎない。 「エグゼクティブクリエイティブプロデューサー」という存在も「ムラカミリョウ」も何ら変わりない「人間」であり、他の人のイメージによって作り上げられただけのパッケージ商品。中身は全く一緒。目があって鼻があって口がある人間。 一杯のラーメンを「醤油ラーメン」と呼ぶか「フランスで修行を重ねたミシュラン三つ星シェフのJapanese soy souse noodle」と呼ぶかに似ている。 故に「上」も「下」もなく一緒だという目で見ると視野が広がる。変なレッテルも貼らずに平等に話すことができる。 幻想を植え付けやすいブランディング蔓延るネットの世界に居る割合が増えてきた僕たちにとって、この言葉のマジックに騙されずに1人の人間と向き合う必要は大いにありそうだよね

https://x.com/twigrapher/status/1807322481621123490

僕らは勝手に目の前の人を「肩書き」で凄いかどうかを判断するし、物体に名前をつけて価値を出そうとする。

ファミチキも言い換えれば「鳥の死体」だし、昔の古い布切れを「ヴィンテージ」と言って価値があるようにリブランディングしていく。

扱う言葉というのは全て幻想で、お互いが幻想を信じ込んでできる世界であるということ。

僕の去年亡くなったおじいさんの話をします。
僕のおじいさんは漁師でした。1級船舶免許を持った漁業組合の会長を務めるほどエラい人だったそうです。

そのおじいさんは毎年お歳暮に大量の酒やら食材やらが家に届いていたそうなのですが、現役を退いた途端にパタっとお歳暮がなくなったそうです。

「そんなのもう仕事やめたから誰も送るメリットかんじなくて送らないのが当然じゃん?」ということではあるのですが、仏教的にいうと「漁業組合」というフィクションが消滅して「空(くう)」になった瞬間だったのだとこの本を読んだ後に理解しました。

「学校」や「会社」ですらフィクションで、言葉のマジックで着飾っているだけ。

「ニューヨークパーフェクトチーズ」や「ニューヨークキャラメルサンド」みたいに何かと「ニューヨーク」とつけることでそれっぽさをだしてるけど結局は他のお菓子と変わらない。

言葉のマジックから解き離れた時に空が見えてくる。
そう考えると「うちの会社の強みを教えてください」という面接官の質問は本質的には的外れもいいとこなんでしょう。

まとめ


  • 悩みってのは「自分」という存在を勝手に定義するから出てくるもの

  • 「自分」というのものは存在しない。なぜなら食べた物で体は形成されるように「自分」は常に変わっていくから

  • この世は言葉のマジックで覆われているフィクションである。

  • 恋人も会社も国も全て言葉のお遊びなのであらゆるものは幻だ

言葉のマジックに踊らされて自分というものを勝手に定義していたことをちょっと俯瞰で見ると、新しい世界が見えてくる。
仏教よかったっす!!って地元の先輩に言っておこうと思います。

今日は以上でーす!



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