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【会津の歴史シリーズ第2回】佐幕派からみた幕末史 ーあるいは日本人の生き方ー(2023年11月30日)

※2023年11月30日に開催したイベントのレポートです。

歴史ファンの間でも人気の幕末史。

多くの”英雄”が台頭した時代である一方、会津藩をはじめとする佐幕派にとっては敗北の歴史です。

ですが、視点を変えると違った姿が見えてくるかもしれません。

本日は、人文学研究に精通し、NPO法人六韜塾代表などを務める矢島景介さんによる会津史第2回、幕末編。 
第1回はこちら

江戸幕府の終焉は、日本にとって大きな転換期であっただけでなく、実は諸外国にとっても重要な出来事でした。

勝者からは語られない、歴史の谷間にスポットライトをあてていきます。

江戸時代の文化・思想・外国との関わり。会津はどうだった?

江戸時代の思想には、大きく2つの潮流がありました。

1つは、東洋的な随神(かんながら)の道(自然を慈しむ大和心をあらわす)と、四書五経(中国古典の秩序)。

そしてもう1つが、欧州オランダにルーツをもつ蘭学。

1639年〜1854年にかけて海外との行き来が制限されていた間、一般的には“鎖国”とも呼ばれますが、実際にはオランダ・中国とは貿易があり、年に一回は世界情勢がアップデートできるようになっていました。

「16~18世紀頃、実は日本の文化水準は世界的にも最先端だったんです。時計の技術や、地図をつくる測量技術は高いものをもっていました」

その頃の会津。山国のため情報に疎かったのではと思いきや、1804年にはじまったロシアから蝦夷地への侵攻対策という形で、外国との関わりがあったとわかっています。

また、仙台藩に仕えた林子平は長崎に留学し、実際のオランダ船をみて日本との戦力レベルの差を実感。

外国対策の必要を感じた林子平は、「言うは不敬、しかし言わぬは不忠」と、正論書『海国兵団』を出します。

取締られてもなお自費出版を続け、小笠原諸島など領土規定の根拠を作りました。

このようにオランダ外交の窓口であった長崎から遠く離れた東北諸藩も、実は欧米という存在の大きさを認識していたと考えられます。

会津の精神的土壌をつくった人物と言えば、藩祖である保科正之。

忠義を重んじる正之の教えは後世まで受け継がれ、「会津十則」や「会津っ子宣言」として幼い子どもに至るまで行動の指針とされていました。

もうひとり、会津出身で人々の思想に大きな影響を与えたのが山鹿素行です。儒学者であった素行は山鹿流兵法の創始者であり、武士道を政治哲学まで高めたとされています。

幕府に迫る危機。欧州の動向、経済と雄藩、そして思想

当時欧州では、大航海時代、産業革命を経て、植民地時代へと突入。

特に有力だった大英帝国とロシア帝国が、各地で争うという事態も起きていました。

日本にも欧州列強から、通商を迫ろうと熱い視線が注がれます。

この頃、日本は海外よりも金が銀に対して割安であり、重量を基準に貨幣同士を取引する修好通商条約を結ぶことによって、欧州勢にとっての日本はたやすく金を得られる相手。

いわゆる”お江戸ゴールドラッシュ”とも呼ばれる状況だったのです。

国内の経済状況にも変化が起きていました。

「商人のほうが武士より稼げるようになってきていたんです。資本主義のはしりが定着しつつありました」

懐事情が寂しいのは、幕府も例外ではなく。しかも幕府の弱体化は、経済面だけではありませんでした。

「当時の幕府、情報収集能力はピカイチ。だけど、それ以外の対応力や決断力は、だいぶ低下している状態だったと思います」

そんな中、薩摩や長州といった雄藩が幕政に口出しをできるほどに力をつけ、幕府と大名の間のパワーバランスには乱れが生じる状況に。

矢島さんは雄藩と幕府側の立場を分かつ要因となったのが、情報量の差であったといいます。

「FACT認識がずれていたんです。幕府は情報を持っているから、外国との実力差もわかっているし、絶対に勝てないと知っている。だから戦争を回避しようと動く」

一方の薩長は、まだ欧米の実力を知りません。そのため、開国に転じていこうとする幕府への不信感を強めていきます。

それにしても、迫りくる諸外国の脅威を知りながら、国内でいまいちリーダーシップを発揮できなかった幕府。

なんだか情けない?と思いきや、実は軍備技術や財政の面で改革を進め、諸外国との渉外をがんばろうとしていた人たちもいたのだそう。

たとえば、小栗上野介忠順。横須賀製鉄所(造船所)の建設計画を立てて、フランスの技術や軍の様式を取り入れ、産業・軍事の近代化を進めます。築地に日本初のホテルを開業させたのもこの人。

長崎奉行を務めた水野忠徳は、日本から外国への金の流出を食い止めるため、二朱銀をつくりました。

ちなみに、条約を結ぶ相手に米国を選んだのも、実は理由があってのこと。

「この頃のアメリカはベンチャー的な存在。イギリス相手ではすぐにやられてしまうけど、アメリカならがんばれば追いつけるんじゃないか?と、考えた上での判断でした」

賊軍が英雄に、お上が追われる立場に。転換となったのは、薩長と外国とのエンカウント

深まっていく開国派の幕府vs.攘夷派の雄藩の対立構造。

とくに過激な動きをしていたのが長州です。この頃の長州は、いわば賊軍。御所に火を放つ計画を立てる者もあらわれるなど、危険な存在でした。

なぜこんなにも攘夷派の行動が激化していたかの背景には、江戸時代に広まった陽明学の思想があります。

秩序を重んじる朱子学に対し、「良いと思ったことはやるべき」という実践主義の陽明学は、熱狂的な”ファン”を獲得。

「天誅」を謳う攘夷志士たちも、その影響を大きく受けていたのでした。

この過激な攘夷派を京都で取り締まっていたのが、かの有名な新選組。その彼らを組織したのが、京都守護職・会津藩主の松平容保公です。

そもそも、西の守りを担当していたのは彦根藩。火中の栗を拾うような京都守護職は、井伊家から会津藩になすりつけられたものといえます。

容保公は、忠義を尽くす会津魂の実践者でした。この役目を彼が引き受けたそのときから、幕府と一蓮托生となる会津藩の命運が定まりました。

そんな中、情勢のターニングポイントとなったのは、薩英戦争と下関戦争。

薩摩と長州がそれぞれ外国とぶつかり、ついに欧州との力の差を実感したのです。

その後、敵対していたはずの薩長は手を結び。

過激な攘夷派であった長州は、武力を求めイギリスとの取引をはじめます。この頃、ミニエー銃をはじめ、新型の武器も登場していました。

ここで注目したいのがお金の流れ。

下関戦争に負けた長州、お金がありません。英国への賠償金は、幕府が肩代わりをしていました。

その英国から、なんと長州は借金をして外国製の武器を購入しています。

おや?幕府のお金が、敵対するはずの長州へ武力として流れている…

かくして英国をはさみ、幕府は少しずつ力を削がれ、一方の長州は力を強めていったのでした。

戊辰戦争はなぜ起きた?

幕府の財力が落ちる一方で、兵の数は劣るものの、武力水準をあげていく薩長。この状況での戦争を回避するため、慶喜は江戸城を無血開城しました。

しかしその後、会津でも数々の悲劇を生んだ戊辰戦争がはじまってしまいます。

その理由となったのも、やはりお金でした。

武器の収集や長州ファイブの派遣などを経て借金漬けになった長州は、もはや幕府を相手とする戦いに勝つしかない状況。

なのに、期待していた江戸城の金庫には、お金がありません。

そこで目をつけたのが、会津や仙台など東北の有力藩の財力。奥羽越列藩同盟をあわせて、227万石にも及ぶものでした。

戊辰戦争は、西軍による”略奪”のための戦争だったのです。

この戦い、命運をわけたのはやはり武力の差。

最新式の兵器を揃えた薩長に対し、会津藩の武器の半分を占めていたのは火縄銃…。

その後、会津が迎える顛末、白虎隊をはじめとする悲劇の数々は周知のとおりです。

さて、幕末史を俯瞰で追っていくと、実は佐幕派と維新派の戦いは、イギリスによる金と武力のコントロールによって引き起こされたのではないか?という見方ができてきます。

最後にエピローグとして矢島さんが話してくれたのは、戊辰戦争に勝ったあとの明治政府の金融政策。

幕府の遺産を引き継げなかった政府は、初期金融政策に失敗し、借金生活は継続。

そして、なぜか国内では大判小判から紙幣へ移行したというのに、貿易=外国に渡すための金貨をわざわざ作っています。

紙幣への切り替えは、「便利で使いやすいから」という理由。

一方で国際的な取引の場面では、より信頼性の高い金貨の取引が主要だったため、金貨の製造が必要だったとされています。

このとき、明治政府が世界諸国と取引をするうえでの仲介役となっていたのが、英国東洋銀行(オリエンタルバンク)です。

そして、若き日に英国への密航を遂げ、明治の世で華々しい功績をあげた“長州ファイブ”(伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三)のうち4名が、造幣局の局長を歴任。

イギリス人技師を招き、ポンドと同じ金貨、同じ貨幣を鋳造させており、英国と長州との密なつながりがわかります。

2024年から新たに一万円札の顔となる渋沢栄一は、明治政府の汚職に嫌気がさして退職。

ともに維新を戦った西郷隆盛も薩摩での農業の道を選んでゆき、袂をわかったのでした。

華々しい”維新”を遂げた新政府軍。ですが、裏で起きていた別の事実を拾い上げていくと、その印象はまた違うものになっていく…これもまた、歴史の面白さと言えるのかもしれません。

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