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【会津の歴史シリーズ第3回】明治以降の会津をたどる ー会津士魂の真髄とはー(2023年12月8日)

※2023年12月8日に開催したイベントのレポートです。

NPO法人六韜塾代表であり、人文学研究に精通するBAR IAPONIA共同オーナー・矢島景介さんによる、会津の歴史を学ぶ全3回のイベント。

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最終回の本日は、戊辰戦争に敗北して以降の会津が、いかにして復興をとげていったのかを辿ります。

戊辰戦争における会津vs薩長軍(イギリス)の構図は、太平洋戦争時の日本vs米中英蘭連合軍の構図に通じるものがあると、矢島さんは言います。

「会津がどのように敗戦から立ち上がってきたのかを掘り下げることで、戦後日本の復興も理解できると思います」

そして今回、ポイントとなる問いは”なぜ、会津は圧倒的不利な状況でも戦ったのか”。

戊辰戦争は会津にとって”勝てないと分かっている戦争”でした。攻める西軍75,000に対し、会津藩は9,400。三方面作戦で攻め込まれ、武器の差も圧倒的。

そんな状況でも会津が敵に立ち向かった意義とは何だったのかを考えていきます。

戊辰戦争後、会津の状況

戊辰戦争に敗れた会津は、現在の青森県むつ市・下北半島にあたる斗南藩へ転封。石高は20万石から、3分の1程度の7万石に減少しました。

「イコール、3分の2のひとは食べていけない。寒冷地での貧困生活がはじまったんです」

1873年の廃藩置県までの数年間とはいえ、元会津藩の人々は厳しい生活を迫られることに。

そんな中でも、今でも青森の名産として親しまれるりんごの栽培に力を入れるなど、地元への貢献の記録も残っています。

一方、この頃おきた歴史的事件といえば、西南戦争。

西郷隆盛率いる薩摩士軍を相手に、軍備で優勢だったはずの明治政府軍は苦戦、”サムライ”の強さを思い知る形に。

新しい時代の幕開け。敗者と勝者に分かれたように見える会津と薩長ですが、実はそれぞれがダメージを負い、ある意味痛み分けのような状態だったのでした。

会津の人物史

さてそこから、会津という土地はどのように復興していったのか。

会津から出て、様々な功績を残した人々の歴史を振り返っていきます。

「明治期、政府のなかではやはり会津出身者はあまり目だたないのですが、代わりに教育や医学の分野で活躍した人が複数います」と矢島さん。

そのひとりが、山川健次郎です。

イェール大学に留学(実はこの留学、長州出身者には放蕩なお坊ちゃんが多かったことから、代わりに苦労人である会津出身者が引き立てられた…という経緯あり)した物理学者で、旧帝大の総長を務めた教育者でもあります。

実はあの白虎隊の生き残りであり、『会津戊辰戦史』という歴史書を書き残しました。その後日露戦争にも、叶わなかったものの、一兵卒としての従軍を自ら希望しています。

「武道と学問と政治と、ぜんぶない交ぜでひとりの人格の中に共存していたのじゃないかと思います」

山川は、秩父宮勢津子妃殿下の宮家への輿入れにも奔走しました。この婚儀は、江戸幕府終焉以来”敗者”であった会津にとっては復権そのもの。街をあげ、大いに喜ばれたといいます。

医学界ではもちろん、千円札でおなじみの野口英世が福島の出身です。

その医学的な功績は周知のとおりですが、矢島さんが着目するのは彼のマーケティング&ファイナンス能力。

「ファイナンスっていうより借金能力(笑)。まず、この人放蕩癖が人格のベースにあるんですよね」

面白いのが、長年野口の傍らで彼をサポートし続けた血脇守之助との関係。

「(野口は)戦略家で、とにかく借金の天才なんですよ。『ドイツ語を学びたいから金をくれ!』と、血脇を頼るんですが、『お金がない』と断られる。そうしたら野口英世がうまいことやって、血脇を出世させるんです。血脇が出世して収入が増えたので、そのお金で援助してもらうという」

「とにかく人の力を借りるのがうまくて、医学だけじゃなくて政治的手腕もある人だったんです」

大酒飲みでもあった野口英世。アメリカ留学を末廣酒造(今も人気の会津の酒造)から援助されますが、なんとその渡航費を留学前に飲みつくしてしまうという無茶苦茶ぶり。

しかし矢島さんは、このエピソードに実は、野口のマーケテイング手腕が現れていたのでは?と考察しているそう。

「『地元からアメリカに留学する者が出たぞ』ということで、人をたくさん集めてお酒を飲み、どんちゃん騒ぎをやったんですが、この後、また末廣酒造から資金を援助されているんです。これは、この時飲んだお酒が末廣酒造のもので、利益が末廣さんに還元されていたのではないかと」

1900年に起きた義和団事件では、西郷従道が活躍。山縣有朋らとともに北京の外国人居留地で籠城してひとびとを守り、欧米からの信頼を得ます。このことは、のちの日英同盟の下地となりました。

そのほかにも、ベストセラー『佳人之奇遇』の著者柴四郎と日本の鉄道事業の先駆者である柴五郎の兄弟や、大河ドラマで綾瀬はるかさんが演じた新島八重。

さまざまな分野において、会津出身の面々がその才覚を発揮したのでした。

近代史における、東北人材の活躍

実は、日本に限らずアジア史というスケールにおいても、会津をはじめとする東北出身の人々は重要なはたらきをしています。

中国の辛亥革命時には、複数の東北人が個人で大陸に渡り参戦。

その背景には、彼らが「敗戦と亡国の痛み」を知っていたことがあるといいます。

その後、日露戦争から満州建国の頃までは大陸に東北軍人がいて現地の人々との交流がありましたが、次第に減少。日本軍の中に、中国の民意を汲める人物が減ったことも、後の展開に影響を与えたと考えられるかもしれません。

“会津魂”を受け継いだのは、東北出身者だけではありません。

太平洋戦争の終末時、北部において”終わらざる夏”を戦い、日本の領土を守り抜いた人々が在りました。

占守島の戦いとして知られる、8月18日から21日までの出来事。終戦日の8月15日の後に、当時日本領であった占守島へソ連軍が侵攻してきたのです。

その最前線で戦ったのが、池田末男大佐率いる戦車第11連隊。「十一」の字面から「士魂部隊」と呼ばれた精鋭部隊です。

池田大佐(死後、中将に昇格しています)がこの時部下に言ったというのが、次の言葉。

「赤穂浪士となって恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか。あるいは白虎隊となり玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか!」

「赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとするものは手をあげよ」

この言葉に、士魂部隊の面々は諸手を挙げて応えたのだそうです。

終戦後、本来ならば命を落とす必要のなかった人々が戦った、数日間。彼らの士気を高めたのが、戊辰戦争で郷を守るため戦いに身を投じた、白虎隊の存在だったのでした。

”負け戦”の意義とは

ここで改めて、“負けるとわかっている戦”に立ち向かう意味を考えます。

矢島さんが例にあげたのは、幻のシッキム王国。かつてネパールとブータンの間にあったシッキム王国は、戦わずにインドに帰属することを選択。その結果、国は消滅してしまいました。

「死ぬんだったら戦わなくていい、という考えもあると思います。だけど、戦わずに降参したら、民族ごと消滅する。そして、歴史を語り継ぐという行為がなくてもやはり、その民族は失われます」

たとえ敗れて”国”という形はなくなっても、民族と、民族を構成するあらゆる要素(言語、教育、文化など…)は残ります。そして敗れたからこそ、その後の捲土重来政策が重要視され、再興に向けて立ち上がることができると考えられます。

歴史は語り継ぐもの。このとき、正史では記されなかった側面が語られることも、とても大切です。

矢島さんは、「歴史の正しい使い方は”鏡”」だと語ります。

”鏡”である歴史=過去にうつるのは、わたしたちの現在。

「子孫が、有事のときに参考にできるケーススタディとして、歴史を受け継ぐことが大切だと思います」

過去の教訓をあますことなく受け取るため、正史ではない裏からみた歴史をたどった、矢島さんによる会津三部作イベント。

世界の各地で戦争・紛争が起こるまさに今、考えを深めさせられる機会となりました。


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